水の章・2−6


6.


 灯りが落とされ、時折衛兵を見かける以外は人気もない宮殿の廊下を、リュミエールは足早に通り抜けて行った。

 目的の一室は、公用の場としては最も奥まった位置にある。さして飾り気もなく、広くもないその部屋の中央、祭壇のように高くなっている場所に立って、守護聖たちは自らのサクリアを放つのだ。




 いつか再び駆け足となり、息を切らせて扉を開けたリュミエールの前には、闇があった。

 小さな常夜灯だけが頼りの闇の中、その漆黒を呼吸するかのように顔をやや伏せ、胸の前で左手を軽く握っている黒髪黒衣の姿が、壇上にある。

 丈高き全身からは既に、紫色を帯びた力の波が、立ち昇るように流れ出している。

 斜め下から窺える − いつも彫像のようだと見惚れてしまう − 端麗な横顔は今、一層陰影を深め、胸を打たれるほどの美しさを見せている。

 だが、この陰影が紛れもなく、虚しさと悲しみ、そして苦痛がもたらしたものである事に、少年は気づいていた。

 (これが、クラヴィス様の……職務……)

初めて見るその光景に、魅入られながらも愕然としてしまう。

 各守護聖の職務については、就任前に一通り教わっていた。凶悪な行い、醜い言葉、卑しい考え……この宇宙に存在する、または、かつて存在した命が犯した、幾多の罪の全てを自らの内に取り込み、無に帰し、新たな生のための清浄な眠りを与えるのが、闇の守護聖の役割の一つである事を、リュミエールも知らなかったわけではない。

 罪が多いほど重いほど、それを収めるのには苦痛 − 肉体的なものではなく、どちらかというと精神的な、魂が砕かれるような痛みだという − が伴うとも、聞いた覚えがある。

 しかし、実際にその様を眼前にし、クラヴィスの姿から無言の苦痛を感じ取った今、少年はいかに自分が何も分かっていなかったかを思い知らされていた。

(これほど……これほどの代償を必要とするのですか、闇の力というものは……)






 どれくらい時間がたったのだろう、黒髪の青年はようやく顔を上げた。

 サクリアの使用だけでなく、研究院での出来事もその疲労を大きくしているらしく、リュミエールの姿も目に入らない様子で、ゆっくりと壇を下り始める。

 ふと、その足元がふらつくのを見て、水色の髪の少年は慌てて飛び出して行った。

 だが、まるで自分のものではないかのように、手が動かない。

(ど……うして……?)

 戸惑っている間にクラヴィスは体勢を立て直し、こちらに一瞥だけくれると、再び重い足取りで歩き出した。




 闇の守護聖は、そのまま宮殿を出ていこうとする。馬車置き場にも向かわず、一体どこに行くのかと訝しみながら、リュミエールは黙って後を付いていった。

 やがて、行く先が庭園であるらしいと分かると、少し安堵した少年は、先刻の出来事に思いを馳せた。

 (どうして手が……延べられなかったのだろう)

 人を助けるのに、躊躇した事など一度もなかった。全くの他人に対してでも、ほとんど条件反射のように、それが出来ていた。

 それなのに、例え平日の短い時間だけであっても、毎日のように会っている相手を、何故助けられなかったのだろう。

 (毎日のように、会って……)

リュミエールは、はっと気が付いた。

 会ってはいる。だが、それだけだ。ただ彼の部屋を訪ね、竪琴を弾いて帰るだけ。いつもそれで満たされた気持ちになっていたので気づかなかったが、客観的に見ればこの関係は、限りなく無に近いのかもしれない。

 会う頻度だけならば、かなり親しい間柄と言えようが、その間、少しでも会話らしい会話があっただろうか。まして、体に触れた事はおろか、触れられるほど近くに寄った事さえ、一度も無かったのではないか。

 (そういえば先ほども、触れては無遠慮ではないかと憚る気持ちが、心に生じていたような気がする……けれど……)

 考えが一巡りして、また元に戻っていた。知らない相手であろうと、助けるためならば自分は触れる事を憚ったりしない。それなのになぜ、この方に対してだけ、そんな意識が働くのだろうか……




 思い悩むうち、いつか噴水の前に着いていた。

 黒髪の青年はそこで足を止めると、気持ち体を屈め、片手をすっと水に差し入れた。

 冷えた感触を味わっているのか、そのまま微動だにしない。夜空と同じ色に見える双眸は水面に向けて伏せられ、そこに映り込んだ細かな反射光が、頭上の星々の様に無数の輝きを放っている。

 「……リュミエール」

不意に声を掛けられ、青銀の髪の少年は、もう少しで飛び上がるところだった。

「は、はい」

 クラヴィスは、揺れる水を見つめたまま、言葉を継ぐ。

「聖地の水の持つ……特別な力を、お前なら感じられるだろうか」

 リュミエールは、驚いたように聞き返した。

「やはり、何かあるのですか?」

 闇の守護聖は切れの長い目を閉じ、穏やかな声で答える。

「公に認められている訳ではない。だが、こうしていると感じられる。それに、伝説もある……」

「伝説……?」

「記録にさえ残らない遠い過去に、森の湖の精霊から、持つ者に大きな祝福を与える宝玉を授かった者がいる、という昔語りだ。それは、宇宙の危機を救った勇者とも、あるいは……」

 そこで青年は言葉を切った。

「クラヴィス様?」

 皮肉な笑みを浮かべ、闇の守護聖はそっと水から手を抜き出した。

 白く長い指先から、水晶の粒が幾つも揺れて落ちる。

「何でもない……ただ、伝説というものには、常にいくらかの真実が含まれているものだ。この話も、あるいは聖地の水が、何かの力を有する事を表しているのかも知れぬ」

「はい……」

リュミエールは、喜びながらも戸惑っていた。

 クラヴィスはこちらに目も向けず、表情のない顔で低く言葉を発するだけだが、それでも少年にとっては、初めて見る打ち解けた態度なのである。

 そう言えば先刻、研究院で、二人は初めて言葉を − 会話らしい会話を ― 交わしていたのだった。

 あの事件のせいで、クラヴィスとの距離が少しだけ縮まったと、そう思っても良いのだろうか。

 「……どうした?」

じっと見つめられているのに気づいた闇の守護聖が、訝しげに尋ねる。

 (私に、問いかけて下さった!)

 少年は有頂天になりそうな心を抑え、それを勇気に変えて答えた。

「はい……教えていただきたい事があります」

「……何だ?」

 ゆっくりと自分の方に向き直るクラヴィスを見て、リュミエールはもう一度勇気を奮い起こすと、先刻から心を圧していた疑問を口にした。

「闇とは何なのか……それを司るクラヴィス様のお言葉で、お聞きしたいのです」

 切れの長い暗色の瞳が見開かれ、リュミエールを凝視する。

 その視線の強さに、少年は気が遠くなりそうになったが、自分の問いが真剣なものだと伝わるよう、必死の思いで見返していた。

 やがて、クラヴィスは唐突に話し始めた。

「闇とは − 人の本質だ」




「……人だけではない、全ての存在が生まれる元であり、還る先でもある。混沌であり、無であり、無限でもある。闇から見れば、何もかもが束の間の瞬きに過ぎぬ。
 だが……人の本性は、光だ。
 人として生まれた者は、闇を否定する事で前進してきた。一瞬の存在である己の光を信じ、それを少しでも長く強く輝かせようと、様々な偉業を成し遂げてきた。
ゆえに闇の存在も、初めから定まっているその勝利も、決して表立って認められてはならぬものなのだ」




 途切れがちに、そして他人事のように語られた言葉は、少年の胸に重い響きを残した。

「それでは、あまりに……」

上げかけた声は、力なく途切れてしまう。

 以前、先代の水の守護聖と話していた時に、やはり闇の力が話題となった事がある。当時はまだ、視線さえ殆ど合わせた事のなかった闇の守護聖について、少しでも知りたいと思って尋ねてみたのだ。

 なぜか気遣わしげな表情を浮かべながらも、先代は親切に教えてくれた。




『人間の成したものは全て、いずれ滅んでしまう。この世に永遠が無いように、人は結局、闇に勝つ事はできない。しかし、その事実を認める事は諦めに繋がり、滅びに繋がってしまう。
あるいは……たとえば力尽きた者、再起までの休息を必要とする者に、安らぎを与え、彼らの存在を認めてやるのは闇の良き役割だが、人間がそこに安住していては、進歩がなくなってしまう。
 だから、人間にとって闇の力とは、必要だが否定しなければならない、とても微妙なものと言えるだろう』




 この言葉を聞いた時にも、割り切れない思いがしたものだった。不条理ではあるが、他に道がない……だが、やはり不条理な真実。

 黒衣の守護聖は、黙り込んだリュミエールに静かな視線を向け、続ける。




「……闇の力は、その中でも宇宙の繁栄に役立つ、ほんの一部分だけを必要とされる。他の力にも二面性はあるが、滅びそのものを司るこの力と比べれば、ほとんどが繁栄に繋がっているといって良かろう……
恐らくは、光のみならず、他の全てのサクリアが、本質的に、闇とは相容れぬものなのだろうな……水のサクリアも含めて」




 言い終わったクラヴィスは、まるでそれが決別の言葉であったかのように視線を外し、疲れた様子で噴水の縁に腰を下ろした。

 突き放された思いでその様子を見つめるリュミエールの胸に、また一つ、以前耳にした言葉が蘇ってくる。

 あれはいつだったろうか、オスカーが、まるで自分の事のように、誇らしげに語っていたものだ。




『……お前も聞いた事があるだろう、女王陛下のサクリアが目に見える形で現れる時、それは白と金色の光となって降り注ぐ。この二つのうち金色は、光のサクリアと近い質のものとされているそうだ。
 宇宙に存在する全ての人間の存在を守り、前進を助けていく陛下のサクリアが、だぜ。だからこそ光の力は、九つのサクリアの中で第一の座に置かれるんだろうな……』




 (陛下のサクリアが、光と同質……だとしたら、闇の置かれる立場は……)

 既にリュミエールの存在を忘れたかのように、黒髪の青年は、穏やかな表情で、月の無い夜空を見上げている。しかし、瞳に映っているのは星々ではなく、その間に広がる暗黒であるように、少年には感じられた。

(異端……孤立……孤独……)

 他の守護聖たちが、意識するしないに関わらず、どこかクラヴィスを敬遠しているように見える、その真の理由に、リュミエールはやっと気が付いた。

(闇の力が陛下の力と相対するために……その力を司る者は、本能的に忌避され、孤立を余儀なくされてしまう……)

宇宙にたった九人しかいない守護聖の、その中でさえ。

 闇の守護聖の孤独は、必ずしも、生来の性が独りを好むから、というだけの理由ではなかったのだ。

(そのようにして − 闇だけを同胞として、この方は一体、どれほどの歳月を過ごされてきたのだろう……)

 少年は、慄然としてクラヴィスを見つめた。

 わずか六歳というのは、闇の守護聖として、他に類を見ない若年での就任だったと聞いている。

 その幼さで親から引き離され、それからずっと、この強大にして不可欠な力を司り続けてきたのだ。

 あれほどの苦痛と孤独を代償として払いながら、認められる事もなく。

「クラヴィスさま……」

震える唇から漏れた呼びかけに、青年が驚いた様に顔を向ける。

 いつもの凍てついた瞳、乾ききった心。

 闇の宿命以外にも、もしかしたら、原因があるのかもしれない。だが、少なくともそれらは − いや、恐らくはどのような傷も痛みも、誰にも顧みられず、癒される事も無く過ぎてきたのだろう。

(……幼い頃から、今までずっと、このような運命を、ただ受け入れて来られたのですか……宇宙のため、私たちのために……)

 恩義と痛々しさ、そして崇拝に近い敬慕に突き動かされて、リュミエールはその場に跪くと、闇の守護聖の手を取った。

 そっとそれを額に押し戴き、頭を垂れる。

「クラヴィス様……聖地の水が癒しの力を持つのなら、私にもその力が、少しはあるかもしれません。ですから……おこがましいのを承知で申し上げます、どうか、お側にいる事をお許しください。あなた様を癒してさし上げたいと、そう願う事を、私にお許しください!」

 きっと、そのために自分は聖地に来たのだから。

 そのために、ここにいるのだから。




 長い、長い沈黙の後。

「……好きにするがいい」

抑揚の無い低い呟きが、夜の闇を流れていった。


水の章3−1へ


ナイトライト・サロンヘ


水の章2−5へ