水の章3−11
11.
だが次の瞬間、夢と炎の守護聖は、まるで申し合わせたかのように同時に構えを緩めた。
「何だか、気が削がれたねえ。あまりリュミエールを心配させてもいけないし、今はこれくらいにしとかない?」
「ああ、俺は構わないぜ」
パッションブロンドの青年の提案に、赤毛の青年はあっさり頷き、剣を収めた。
「……それにしても、困った所に傷をつけてくれたものだな。レディたちにどう説明したらいいんだ」
「正直に教えてあげればいいじゃない、“お楽しみの名残のヒール痕だ”って」
「誤解を招く言い方をするな!」
意味はよく分からないが、どうやら二人が軽口をたたき合っているらしいのを察して、リュミエールはようやく安堵の息を付いた。
「良かった、仲直りしたのですね」
「ちょっと違うぞ……」
否定しかけたオスカーを肘でこづき、オリヴィエが代わりに言葉を続ける。
「ま、広ーい意味で言えばそういう事になるかもね。お互い、悪い印象を塗り替えられたんだから」
「お互い……?」
青銀の髪の青年が、仄かに意外そうな表情で繰り返した。
「うん。この際だから言っちゃうけどさ……」
肩をすくめて答えかけた夢の守護聖が、ふと何かに気づいたように、視線を空に向ける。
「続きは、戻りながらの方が良さそうだね」
言われて周囲を見回せば、いつの間にか木々の影は濃さを増し、陽射しも黄金色を帯び始めていた。
「思ったより時間をくっちまったようだな。執務時間内に宮殿に着けるといいが」
「そうですね、行きましょう」
同僚たちが賛成するのを見届けると、オリヴィエは先に立って歩き出した。
刻々と暮れゆく細道を進みながら、夢の守護聖は、二人に背を向けたまま話し始めた。
「オスカーが私を、八つ当たり中のお子ちゃまだって誤解してたみたいにね……実はこっちも、あんたたちを胡散臭い奴らだって思ってたんだよ。その、いかにもな強さとか、絵に描いたような優しさっていうのが、どうにも信用ならなくてさ。まったく、世間擦れし過ぎるってのも考えものだねえ」
水と炎の守護聖たちは、黙ってオリヴィエの後ろ姿を見つめていた。派手な装飾も今は灰色の影に沈み、ただその全身の、細作りに似合わぬ力強い線と、しなやかな動きだけが際だっている。
「――だから、ちょっとだけでもオスカーと手合わせできて良かったよ。相手の強さが紛いものかどうか、あれで分からないほど、私も素人じゃないからね」
「ふっ、だから“お互い”と言ったのか」
苦笑するオスカーの隣で、リュミエールは黙って俯いてしまう。
だが夢の守護聖は、そこで足を止めると、振り向いて言った。
「落ち込むのは早いって、リュミエール。あんたの事は、とっくに見直していたんだから」
「そう……なのですか?」
思わず聞き返す水の守護聖に、パッションブロンドの青年はすっと手を伸ばし、青銀の髪を一房すくい上げた。
「これでも夢の守護聖様だからねえ、こういう眼に訴える美しさはもちろんの事、音の美しさにも敏感なつもりなんだけど……その私が何回も、通りがかりに聞いた演奏で、反則なくらいぎゅっと胸が締め付けられたんだよ」
普段見せた事のない誠実な眼差しを、照れ隠しのように相手の髪に向けながら、オリヴィエは続ける。
「この審美眼に賭けてもいい。あれは、偽善者や半端な奴に出せる音じゃないね」
思いがけない好意と理解に、青銀の髪の青年は頬を赤らめながら、しかしはっきりと答えた。
「オリヴィエ……ありがとうございます!」
「やだ、あんたが感謝する事じゃないでしょ」
軽く微笑みながら手を離すと、夢を司る青年は珍しくも、少し改まった様子で礼を取った。
「じゃ、これから宜しく頼むよ、二人とも」
やがて三人は森と庭園を抜け、ようやく宮殿の見える所まで戻ってきた。
「執務時間は過ぎてしまったな。まだジュリアス様は、ご在室のようだが」
「ああ、クラヴィス様も、お部屋に戻られたようです」
執務室の窓に眼を向けながら、炎と水の守護聖が口々に言う。
夢の守護聖は呆れたように首を振った。
「そういえばあんたたち、あの人たちの補佐役を買って出てるんだって? まったく物好きだねえ」
「何とでも言え。俺はただ、お仕えしたい方にお仕えしているだけだ」
オスカーがうるさそうに答えると、オリヴィエは意味ありげに片眉を上げながら、もう一人の同僚に尋ねた。
「あんたも同じなの、リュミエール」
突然の指名に驚きながらも、水の守護聖は小さく頷いた。
「少しでもあの方がお楽になられたらと、それだけを私は願っているのです」
「ふうん、ご立派だ事」
茶化すように言った夢の守護聖の眼差しが、何かを思いついたように突然深まる。
「じゃあオスカー、ちょっと聞くけどさ……もしジュリアスと誰かもう一人が、同時に命の危険にさらされていて、片方しか助けられないとしたら、どっちを助ける?」
その状況を想像するだけで悲痛な表情になったリュミエールの隣で、赤毛の青年は即座に答えた。
「俺は、ジュリアス様が“助けよ”と命じられた方を助ける。それがどちらであろうと」
その精悍な顔には動揺の欠片さえなく、ただ声だけが僅かに誇らしげな響きを帯びていた。
パンパンと乾いた音を立てて、オリヴィエが両手を打ちならす。
「あらまあご立派、まさに軍人のカガミだねえ」
「からかう為に聞いたのか」
面白くもなさそうに問い返す炎の守護聖に、美しさを司る青年は、謎めいた微笑で答えた。
「そう思っといてもいいよ。でもいつか、もう一度同じ質問をするから……今日の答えを忘れないようにね」
「何度聞かれても同じだ。リュミエールには聞かないのか?」
「うん、止めとく。だってこの人、前提無視して“私がお二人の身代わりになります!”とか言いだしそうなんだもん」
「あ……」
まさに心の中で出したばかりの答を言い当てられ、リュミエールは当惑した。
「なるほどな」
炎の守護聖は感心したように相づちを打ち、それからおもむろに足を速め出した。
「さてと、俺は先に行かせてもらうぜ。ジュリアス様に、今日中に確認しておきたい事があるんだ」
「はいはい、せいぜい頑張ってね。押し掛け副官!」
オリヴィエは、大股で宮殿に向かうオスカーの後ろ姿を見送ると、面白がるような微笑のままリュミエールに向き直った。
「で、クラヴィスの住み込み書生さんも、これからご用伺いに行ったりするワケ?」
「そのような……いえ確かに、ご用があるかどうか、伺いに行こうとは思っていますが」
大げさな物言いに戸惑いながら答えたリュミエールに、オリヴィエは頭を振りながら言った。
「やれやれ、どうしてそんなに、他人の事を気にかけるんだろうねえ。私はルヴァ……の茶坊主になるなんて、まっぴらだけどさ」
苦笑を浮かべた美しい面を、リュミエールは不思議な気持ちで眺めていた。アイシャドウの間から覗くその青い瞳が、一瞬だけとても温かな色に染まったのを、確かに見たような気がしたのだ。