水の章・3−13
13.
「今、ゼフェルと一緒に、ジュリアスの部屋に行ってきた所なんですよ。と言っても、あの子が途中で飛び出して行ってしまったので、最後の方は差し向かいになっていたんですが」
モスグリーンの長衣に身を包んだ青年は、勧められた安楽椅子に腰を下ろすと、いつもの穏やかな調子で話しはじめた。
「ゼフェルが期限までにレポートを出さなかったので、その事で呼び出されましてね。まあ、レポート自体は、どこまで守護聖の任を理解しているか確認するためのものだったので、執務に影響が出るような事はなかったんですが、とにかく本人が“ちゃんと仕事できてるんだから、確認なんて必要ないだろう”、の一点張りでして――私もずっと、言葉を尽くして説得してきたつもりなんですが、結局どうしても、気持ちを変えてはもらえなかったんですよ」
言葉が途切れても、闇の守護聖が何の反応も示さないので、リュミエールは躊躇いながら相づちを打った。
「そのような事が……あったのですか」
「ええ」
ルヴァはゆっくり頷くと、悲しげな微笑を浮かべて続けた。
「お二人も知っているとは思いますが、あの子はここに来てから、何度となくこういうトラブルを起こしています。それは、確かにちょっと正直すぎて、ちょっと頑固すぎる所もありますが、根は優しいし頭もいい子なんですから、私さえもっとしっかり指導できていれば、こんな状態にはならなかったでしょうに……」
「……用件は」
唐突に、クラヴィスが口を挟んだ。
来客は驚いて灰色の双眸を瞬かせ、それから思い出したように再び話し出した。
「あ、あー、そうでした、こんなおしゃべりをしに来た訳じゃありませんでした。えーとですね……確かこの前の日の曜日だったと思いますが、私が近所の川に釣りに行こうとしたら、向こうからゼフェルが歩いて来たんですよ。ええ、あの子を外で見るなんて滅多にない事だったので、ちょっと驚きながら、どこに行ってきたのか聞いてみたんですが」
柔和な面いっぱいに嬉しそうな笑みを浮かべ、地の守護聖は続ける。
「すると、珍しく機嫌良く教えてくれましてね。何でも、私邸からしばらく行った所に静かな森を見つけたので、そこで昼寝していたとかで……」
この話題のどこに用件があるのか見当も付かず、リュミエールは困惑した表情で、部屋の主に視線を向けた。
黒髪黒衣の男は、執務机に両肘をつき、組み合わせた指に半ば顔を埋めた姿勢で来客を見つめている。
「あー、それでね、クラヴィス。あなたに一つお願いがあるんですよ」
地の守護聖が言いかけると、男は即座に答えた。
「構わぬ」
「……は?」
きょとんとした顔のルヴァに、闇の守護聖は低い声で付け加える。
「騒々しくするのでなければ、好きに使うが良い」
「クラヴィス……知っていたんですか? あの子があなたの庭で昼寝していたのを」
地の守護聖の言葉に、リュミエールは思わずクラヴィスを凝視した。
だが闇の部屋の主は、無表情に頷いたきり、何も言おうとはしなかった。
「……あー、それはどうも、ありがとうございます! ゼフェルには私から伝えておきますよ。あの子は全然気づかないで入り込んでいたようで、あなたの庭だと教えたらひどく驚いていたんですが、これかで安心するでしょう。あんなに機嫌が良かったのも、もしかしたら、あなたのサクリアの影響かもしれませんし……本当に感謝しますよ、クラヴィス」
頼み事が意外なほど簡単に片づいたためだろう、地の守護聖は安堵の表情を隠そうともせずそう言うと、礼の言葉を繰り返しながら部屋を出ていった。
再び沈黙が支配し始めた執務室で、クラヴィスは何事も無かったかのように両の手を解くと、机上の書類に目を通し始めた。
いつもながら臈長けて、冷たいほどに整ったその横顔を見つめながら、リュミエールも補佐を再開すべく、分厚いファイルを手に取る。
だが、その意識は先刻の会話から離れようとしなかった。
ゼフェルが幾度も闇の館の森に入り込み、昼寝していた。館の主はそれを知りながら黙認していた。そうして……自分は何も知らされていなかった。
闇の守護聖が他人を拒まないようになってきたと思えば嬉しいが、それ以上に、これまで抱いた事のない痛みに心を翻弄されて、青銀の髪の青年はただ当惑していた。