水の章・3−14


14.


 次の週末、リュミエールは朝食をすませるとすぐ、闇の館に赴いた。

 いつもなら、クラヴィスが起床する頃を見計らって昼近くに訪問するのだが、今日はなぜか気が急いてならなかったのだ。




 通い慣れた玄関に馬車を乗り付けると、篤実そうな面差しの家令が姿を現した。

「これはリュミエール様……ただ今、クラヴィス様をお起こしして参ります」

 穏やかな中に驚きの隠せないその表情を見て、水の守護聖は初めて、自分の気紛れが余人を巻き込んでいるのに気づいた。

「……いいえ」

青年は、消えそうな声で答える。

「それには及びません。私が勝手に早く来てしまったのですから、出直して参ります」

「しかし、それでは……すぐお呼びして参りますので、どうか少しだけお待ちください」

水の守護聖に足労を掛けるのが忍びないのだろう、年輩の家令は素早く一礼し、踵を返した。だがこの館の主が、そう簡単に、機嫌も損ねず起こされるとは思えない。

 リュミエールは、急いで家令の背に声をかけた。

「待って下さい。やはりこのまま――そう、お庭でも散策させていただきながら、お目覚めをお待ちする事にします。あそこを歩いていれば、時間などすぐに経ってしまいますから」

「……かしこまりました」

高位の来客からの気遣いに、家令は恐縮と感謝の眼差しでそう答えると、深々と頭を下げた。






 鬱蒼と木の茂る広大な森に、清涼な朝の陽射しが降り注いでいる。

 リュミエールにとって、この庭を歩くのは、さほど珍しい事ではなかった。だが、その機会の殆どが館主に付き従っての散策であり、時間も午後から夕方ばかりだったので、こうして朝の光の下を気ままに歩くのは、とても新鮮な気持ちがした。

 しんとした空気の中、露に洗われた木々の間を歩いていくと、無意識に保っていた緊張が徐々に解け、代わりに静かな潤いが満ちてくるような気がしてくる。

(この感じ……クラヴィス様のお力が染み渡ったような、安らぎ……)




“あんなに機嫌が良かったのも、もしかしたら、あなたのサクリアの影響かもしれませんし”

地の守護聖の言葉が、ぽつんと胸に蘇った。




 小石の落とされた水面のように、心に突然、波が拡がり始める。

(ああ……)

数日前に感じたのと同じ痛みを覚え、彼は思わず近くの木に手をついていた。

 朝霧を吸ったのか、樹皮のひんやりした感触が掌に心地よい。思い切って幹に額をつけてみると、肌に伝わる冷たさに加え、湿った木の香りが胸に拡がって、少しずつ気持ちが落ち着いていくのが感じられた。




 しばらくそうして休んだ後、リュミエールはそっと木から身を離した。

(いったい……私はどうしてしまったのだろう)

この様な状態が続けば、いつまた周囲に迷惑をかけてしまうか知れないし、執務にも支障をきたしかねない。

 そうならないためには……見定めなければならない。自分の心で何が起きているのかを。




 ゆっくりと歩きながら、ルヴァの話を思い出してみる。

 ゼフェルの侵入と昼寝を黙って受け入れていたという、闇の守護聖の対応が間違っていたとは思えない。もし水の館で同じ事が起きたとしても――青年は私邸の庭を思い浮かべ、想像してみた――やはり自分も、同じ対応を取るだろう。

(なのに、どうしてこれほど気になるのだろう……)

答えを捜し求めるかのように、リュミエールは空を仰いだ。

 いつの間にか、だいぶ日が高くなっている。眩しさに目を細めながら視線を戻すと、枝間を縫って差す光の線が、所々に温かそうな陽だまりを作っているのが見て取れた。

(あのような場所ならば、お昼寝も気持ちいいかもしれませんね)

微笑ましく思いながら、リュミエールはそこに横たわるゼフェルと、それを見下ろすクラヴィスの姿を思い描いてみた。

 その途端、彼の心を痛みが襲っていた。意味のない事と分かっていながら、自分がそこに居合わせなかった事が、どういうわけかひどく悔やまれるのだ。

 喪失感、あるいは疎外感のような、どうしようもない寂しさに、青年は思わず自らの身を抱いた。




「寒いのか」

背後から、低い声がした。

 驚いて振り返ると、五、六歩離れた所に、暗色の衣を纏った闇の守護聖が立っている。

「クラヴィス様!」

駆け出さんばかりの勢いで、青年は相手に歩み寄った。

「……どなたか呼びに寄越して下されば、すぐ戻りましたのに。ずいぶんお探しになったのではありませんか?」

「いや」

クラヴィスは、まだ少し眠そうな声で、短く答えた。

 不思議に思って周囲を見渡したリュミエールは、思わず声を上げそうになった。少し前方、重なる木々を透して、闇の館の巨大な輪郭が現れている。まっすぐ進んでいたつもりが、どうやら知らない間に弧を描き、元の方角へと歩いていたらしい。

 おもむろに館に歩き出しながら、闇の守護聖は平坦な声で言った。

「庭に出るとすぐ、奥の方に、お前らしい影が見えた」

「そうでしたか……それにしても、わざわざお出迎えいただいて、恐縮です」

並んで歩きながら、青年は申し訳ない気持ちでうなだれた。

 だがその一方で、どこか胸弾むような嬉しさを感じている自分に、戸惑っていた。






 守護聖たちが館に戻ると、家令が紅茶を運んできた。

「どうぞお召し上がり下さい。それからクラヴィス様、お食事はいつもの時間で宜しゅうございますか」

「うむ……」

クラヴィス僅かに頷き、それから視線だけをリュミエールに向けた。

「食事の後で、竪琴を聞かせてもらおう」

 青銀の髪の青年は、危うくカップを取り落としそうになった。

「リュミエール様、大丈夫でございますか」

急いで駆け寄った家令に答える余裕もなく、彼は蒼白な顔で館主を見つめ、喘ぐような声で言った。

「申し訳……ありません……竪琴を」

「何?」

「……忘れて参りました」

青年は、途方に暮れた表情で答えた。

 決して短いとは言い難い歳月を通して続いてきた習慣さえ失われてしまうほど、ここ数日の動揺は大きかったのだろうか――

 だが、物思いはすぐに遮られた。クラヴィスが口を開いたのだ。

「苦になるならば、取りに戻れ……いや、私が水の館に出向こう」

「……クラヴィス様?」

予想外の言葉に、リュミエールは思わず聞き返していた。






 それから間もなく、二人は車中の人となっていた。

 闇の守護聖が言葉少なに付け加えた事――正確には、僅かな単語を呟いたに過ぎなかったが――から推測するに、どうやら彼の感覚では、リュミエールが往復するのを待つよりも、水の館に移動して休日を過ごす方が、まだ煩雑さが少なく感じられるようなのだ。

 分かったような分からないような気持ちで馬車に乗った青年は、しかし次第に、心が温かな喜びに染まっていくのを感じていた。二週と開けず続いている闇の館への訪問と違って、クラヴィスを私邸に招く機会はあまり多くない。自分の失敗が原因と思うと不謹慎な気はするが、それでも今日が何か特別な日のように思われて、自然と微笑みがこぼれてくる。

「ああ、もう庭の裏手に差し掛かりました。ここを回ればすぐ館が見えてきますから……」

嬉しそうに窓外を眺めながら、リュミエールはクラヴィスに話しかけた。

 その時、庭の一角にある小さな草地が目に入った。木立に囲まれて目立たず、それでいて日当たりの良いその場所は、ちょうど先刻、もし自分の庭で鋼の守護聖が寝ていたらと想像した時に思い浮かべた場所だった。

 あの時は本当に何の抵抗もなく、微笑ましく思いながら受け入れるつもりだった。

 だが、今だったら。もし今日この場所に、ゼフェルが現れたとしたら――

(私は……)

受け入れようという気持ちに変わりはないが、どこか心が沈んでしまうような気がする。

 いったい、何の違いがそうさせるのだろう。いかなる法則が働いているのだろう……




 見当さえつかないうちに、馬車は水の館の前に到着した。

「クラヴィス様、どうぞ」

水の守護聖は、開いた扉から来客を下ろすと、自らも地面に降り立った。

 昼近い日射しの中、水と緑に囲まれた淡色の屋敷を、クラヴィスが眩しそうに眺めている。その様子を見つめているだけで、物思いの気鬱さも消してしまうほど、満ち足りた気持ちになってくる。

(この心を見定めるには、もっと時が必要なのかも知れないけれど……)

闇の守護聖を玄関へと誘いながら、青年は考えていた。

(……でも、クラヴィス様がいらっしゃるだけで嬉しい、助けになりたいという気持ちだけは、何があっても変わらないでしょう)

「私のせいでご足労いただいて、申し訳ありませんでした。せめて精一杯おもてなしさせていただきます」

殊更に明るい口調で言うリュミエールに、クラヴィスは静かな表情で頷いた。



水の章3−15へ


ナイトライト・サロンへ


水の章3−13へ