水の章・3−16
16.
中央階段の下、宮殿の前面に沿って飾り帯のように造られた花壇の傍らに、クラヴィスは立っていた。
リュミエールは思わず足を速めかけたが、その人の横顔に、どこか遠くを見ているような虚ろさが現れているのに気づくと、音を殺すようにそっと残りの段を下り始めた。
しかし闇の守護聖は、視線を動かす気配もなく、口を開いた。
「……リュミエールか」
「は、はい」
急いで相手に歩み寄りながら、青銀の髪の青年は申し訳なさそうに続ける。
「……すみません、考え事のお邪魔をしてしまいましたか」
だがクラヴィスは、それに取り合おうともせず、尋ねてきた。
「この花壇は、いつ出来たのだ?」
水の守護聖は、唐突な問いに面食らいながら記憶を手繰った。
「確か……オリヴィエが就任して間もない頃、カティス様がここに小さな花壇を造られたのが最初でした。その後、宮殿整備の者たちも加わって少しずつ拡げられていったのですが、今の大きさになったのは、ゼフェルの来る少し前だったと思います」
「カティスが……造った?」
繰り返すように呟くと、闇の守護聖は再び視線を下げていった。
つられて花々を見下ろしたリュミエールは、そこに微かな違和感を覚えた。何がという訳ではないが、見なれた花壇とはどこかが変わってしまったように見えるのだ。
(何なのでしょう、この感じ……)
同じ種類の感覚を、以前抱いた事があるような気がする。だがそれがいつ、どのような折りであったのかが思い出せない。
青年はしばらく考え込んでいたが、やがて諦めたように顔を上げた。ここでずっと花壇を見つめていても仕方ない、湖にでも行ってゆっくり記憶を辿ってみようと思ったのだ。
その時、目の前の黒い長身が、突然ゆらりと動き始めた。重心を移しながら向きを変えている様子からして、東の方角に歩き出そうとしているらしい。
水の守護聖は、遠慮がちに声を掛けた。
「あの、クラヴィス様……もし湖にいらっしゃるのでしたら、ご一緒しても宜しいでしょうか」
経験と勘による推察だったが、どうやら正解だったようだ。黒衣の男は無表情のまま、ゆっくりと頭を巡らせると、注視してやっと分かる程度に頷いた。
徒歩で行くにはやや長い、だが通い慣れた道を、二人は無言で進んでいった。
聖地の北側に位置する小山が近づき、足下が緩やかな登りになるに従って、周囲の木々は深さを増していく。やがて、それが森と呼べるほどになった頃、曲がりくねった小径の彼方から、遠いせせらぎが聞こえ始めた。
すると急に、闇の守護聖が足を止めた。怪訝に思いながらその視線を追ったリュミエールは、前方から白い衣の人物がやってくるのに気づいた。
「……ジュリアス様」
青年の唇から、緊張した呟きが漏れる。
彼やオスカーが間に立つようになってから、光と闇の守護聖は、以前ほど衝突しなくなっていた。だがそれは、単に直接話す機会が減ったというだけの事で、二人の間柄そのものが改善された訳ではない。
リュミエール自身は、ジュリアスを――理由の分からないこの対立や、時に厳格すぎるという点を差し引いても――高潔な人物として尊敬していたが、もめ事は出来るだけ避けたいというのも、また正直な気持ちだった。
逸れるべき脇道もない森の一本道を、光の守護聖は、まだこちらに気づいていない様子で歩いてくる。
何事も起きないようにと祈りながら見つめるうち、リュミエールは不意に、この日二度目の違和感を覚えた。
ほんの僅か、太陽に薄雲が掛かったほどなのだが、使命感と自信に満ちたいつもの雰囲気が、弱まっているように感じられたのだ。
(ご気分でも優れないのでしょうか……)
思い切って声を掛けてみようと思った時、光の守護聖がこちらに視線を向けた。
たちまちその表情が、見慣れた覇気を取り戻す。
「そなたたちか」
普段のジュリアスと変わらない、優雅で威厳ある呼びかけが、聞こえてきた。