水の章・3−17


17.


 面を伏せて礼を取る水の守護聖に、ジュリアスは穏やかな表情で頷き、それから闇の守護聖の方を振り向いた。

 曇り無くまっすぐな視線が、黒衣の男の、日頃にも増して虚ろな表情を見据える。

「気づいているのだろう、クラヴィス」

 その呼びかけに、珍しくも叱責の響きがこもっていないのに、リュミエールは気づいた。

 光の守護聖は何かを探るかのような、あるいは確認してでもいるかのような慎重さでクラヴィスを見つめると、ゆっくり頷いた。

「己の立場もよく分かったはずだ。今後どのように振る舞うべきか、いや、振る舞いを改めていかねばならないか――よく考える事だな」

 これも耳慣れた言葉だったが、その声からは怒りではなく、強い意志のようなものが伝わってくる。

(何もかもがいつも通りなのに、違っている……)

水の守護聖は、動揺しながら二人を見比べていた。

 最初の呼びかけは、目の前の相手を無視しているクラヴィスの態度を指摘したのだと思っていたが、もしかしたら別の事について言っていたのかもしれない。

 自分の知らない所で、何か重要な事件が起きているのだろうか。それは、この二人の間では通じる事柄なのだろうか……

 だがクラヴィスは、聞こえているのかどうかも分からない風情で、ただ抜け殻のように立ちつくしているだけである。

 しばらく返事を待っていたジュリアスは、やがて、諦めたように頭を振った。

「少しでも自らを省みるかと……期待した私が間違っていたようだ」

苦々しげに言うと、光の守護聖は青年に、その碧い瞳を向けた。

「リュミエール、困った事でもあったら、いつでも私の所に来るがいい。この者を頼っても無駄だ」

「ジュリアス様……」

あまりの言い様に抗議しかけた水の守護聖は、しかし、そこで言葉を止めてしまった。相手の貴族的な風貌に、闇の守護聖への苛立ちだけではなく、真剣に年少者を心配する気持ちが現れているのに気づいたのだ。

 だがジュリアスも、返事を強要するつもりはないらしく、いま一度小さく頷くと、衣擦れの音と共に去っていった。




 相変わらずよく晴れた空の下、森のどこかで鳴き交わす小鳥の声が楽しげに響いてくる。

 しばらくその場で佇んだ後、おもむろに歩き出した黒衣の守護聖の後ろを、青銀の髪の青年は暗い面もちで付いていった。

 先刻からの違和感と、いつもながらの光と闇の守護聖の、冷たい――片や相手を人格ごと非難し、片や相手の存在を完全に無視している――諍い、その二人だけが気づいているらしい何事かの存在……

 それらが漠然とした不安となって、胸をじわじわ締め付けてくる。




 普段より遠く感じる道のりの果てに、ようやく湖が姿を現した。その辺りから周囲の木々は少しずつ開け始め、間もなく、木立が数カ所あるだけの明るい草地へと変わっていく。

 湖畔に着いたリュミエールは、思わず深い息をついた。いつもの事ながら、この場所はまるで不思議な力でも働いているかのように、心を落ち着けてくれるのだ。

 闇の守護聖が木陰に腰を下ろすのを見届けると、青年は草地の奥にある小さな滝に向かった。

 白く流れ落ちる水を眺め、清冽な音にしばし耳を傾けていると、霧の掛かっていたような心も、次第に晴れていくような気がしてくる。




 リュミエールは改めて、今日の出来事を思い起こしていた。

(もし何かが起きていて、それが私には隠されているのだとしても……)

 遠からずその事件は、自分にも知らされるのではないだろうか。そうでなければ、光の守護聖が、あの様に半端な物言いをするはずがない。

 たとえ怒りにかられていようと、隠しとおすべき相手の前で不用意に情報を漏らすような人ではないから―― 




 落ち着いてそこまで考えると、青年はふとクラヴィスの方を振り返った。

 黒衣の守護聖は先刻と変わらない場所で、両眼を閉じて坐っている。だがその姿は、妙に周囲から際だって見えた。滝ばかり見ていたからだろうかと、一旦瞼を閉じて見直してみたが、やはり様子は変わらない。

 不思議に思って相手の方に近づいていった青年は、次第に目の前の光景が、自分の思ったのと逆である事に気づいた。クラヴィスの輪郭が濃くなったのではなく、周囲の草木が薄らいでいるのだ。

(これは……)

リュミエールは、花壇での違和感を思い出していた。あの時は比較するものがなかったせいか、はっきり認識できなかったが、確かにこれと同じ――というより、更に強い霞み方をしていたように思われる。

(草が木が、花壇のお花が……弱っても傷んでもいないのに……)

認めまいと無意識に抗いながらも、リュミエールの神経は、全ての答を見出し始めていた。

(あの……方が……)

これまで幾度か経験してきた、ある感覚が、ごく弱くだが確実に存在している。

 自分を取り巻く空気から、何かの成分だけが減ってしまったような……いつも当前のように周囲にある物の中で、何か一つだけが失われようとしているような……

 夢遊病のような足取りで木陰まで辿り着くと、クラヴィスの切れの長い眼がゆっくりと開く。黒と見まごうばかりのその濃紫を茫然と見つめながら、リュミエールは呟いた。

「カティス様のサクリアが……弱まり始めているのですか」





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