水の章・3−18



18.


 闇の守護聖は、訝しげに眼を細めながら、答えた。

「もう、気づいたのか」

 疑いの余地もない返事を聞いて、リュミエールは全身から血が退いていくのを感じた。

 気を許して付き合える数少ない相手の一人、生活の一部のように親しんできた人が、聖地を去ってしまう。同僚を見送る寂しさだけではない、それは、日常が断ち切られてしまうような――そして、どこか余所事のように思ってきた宿命を、いきなり目の前に突きつけられたような、戦慄だった。

(分かっていた筈なのに……守護聖である以上、誰にでも起こりうる事だと)

 決して、忘れていた訳ではない。何時どのような順で訪れるかもしれない退任の時を、自分たちがただ待ち続け、そして受け入れるしかないという事を。

 そう、もしかしたら明日また、別の守護聖のサクリアが弱まり始まるかもしれないのだ。それは水のサクリアかもしれないし、あるいは……

 考えたくない未来が、嵐雲のように胸に広がっていく。それと同調するように足下の地面が大きく傾き、空や木々を巻き込んで回り始める。

 周囲が巨大な渦と化していく感覚に襲われながら、リュミエールは為す術もなく、その中に落ちていった。




 左の上腕を覆う痛みに顔を上げると、眼の前にクラヴィスの白い面があった。

 これまでにないほど近くから見つめてくる瞳に、吸い込まれそうな思いで魅入られながら、同時にリュミエールは、激しい切なさに襲われていた。

(いずれは、このお姿も見られなくなってしまう。離れなければならない日がやってくる……)

 まだ覚めきっていない意識の中、それでも胸の潰れそうな辛さを予感して、青年はその場から離れようとした。

 だが、叶わなかった。闇の守護聖の長い指に、二の腕をしっかり掴まれていたのだ。

 なおも逃れようとするリュミエールの右手が、草深い地面をかすめる。意外な感触に驚いて周りを見回した青年は、自分が跪いているのに気づいた。

「私……は……」

改めて闇の守護聖を見上げると、リュミエールはようやく我に返り、そして状況を悟った。どうやら自分は先刻、動揺のあまり目眩を起こし、両膝を地についてしまったらしい。それでクラヴィスも傍らに膝をつき、腕を掴んで支えていてくれたのだろう。

「申し訳ありません、クラヴィス様……ありがとうございました。もう大丈夫です」

身の置き所もないほど恐縮しながら、リュミエールは謝った。

 だが闇の守護聖は、少しも指を緩めようとしない。

「クラヴィス様、あの……申し訳ありませんでした。もう立てますから、ご安心下さい」

聞こえなかったのかと思った青年は、声に力を込めて繰り返した。しかし、白い指はますます強く腕に食い込んでくる。

 リュミエールはなおも謝り続けたが、強まっていく一方の痛みに耐えかねて、つい喘ぎ声を漏らしてしまった。

 はっと息を飲む気配と共に指の力が弱まり、そして、消える。解放された上腕を手で押さえながら、青年はクラヴィスの顔を仰ぎ見た。

 闇の守護聖は、しばし茫然と相手の顔を眺めると、次いで自らの手を、まるで不可解なものでもあるかのように見下ろした。

 薄い唇が、問いかけるような表情で開かれる。しかし、そこから言葉の出るより前に、紫の瞳にはまた、あの凍てついた色が戻り始めていた。

(クラヴィス……様……)

 ただ見守る事しか出来ない無力感の中、リュミエールは相手の面に、一瞬だけ苦しげな躊躇が現れたような気がした。



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