水の章・3−19
19.
草むらから影が持ち上がるように、黒衣の守護聖はゆっくり立ち上がると、無言で歩き出した。
来た道を戻っていく、その丈高い姿を追いながら、リュミエールは心が沈んでいくのを覚えずにはいられなかった。
美しい湖も晴れた空も、微かに彩りが薄らいでいるとはいえ健やかに繁っている草木も、もうこの人には見えていないのだろう。止める暇もなく引きずり込まれていった闇の中、計り知れぬ寒さにただ心を凍らせ続けているのだろう。
(止める……暇もなく)
青年は自らの両手を、力無く見下ろした。
これほど長く側に居ながら、いまだ何一つ、この人の助けになる事ができない。何をしたら良いのかさえ、つかめていないのだ。所詮自分などの手に負えるはずがないと、幾度も思い知らされてきたというのに、諦める事もできずに……
(違う)
惨めさに押し流されそうな心を引き留めるように、リュミエールは頭を振った。
諦められないのではなく、諦めないと決めたのだ。闇の守護聖が初めて緑の館を訪れる事になった、あの日――今と同じように虚しさに囚われかけた自分が、先輩達に見守られ励まされて、気持ちを再確認した、あの時に。
心配そうなルヴァの眼差し、そして、カティスの温かい声が胸によみがえってくる。緑の守護聖が自分にとってどれほど心強い存在だったかを、リュミエールは改めて感じていた。
その時青年は、自分たちが先刻ジュリアスと出会った場所に差し掛かったのに気づいた。
いつになく覇気を欠いていた光の守護聖の様子を思い出すと、なぜかそれに連なるように、花壇に立ちつくしていたクラヴィスの表情が頭に浮かんできた。
(もしかしたら、あの方たちも……)
水の守護聖は、数歩先を行く黒衣の後ろ姿を見上げた。
光と闇の守護聖たちも、カティスの退任がもたらす影響を思い悩み、それぞれに気落ちしていたのかもしれない。そう思えるほど、緑の守護聖は同僚たちからの信頼が厚かった。一人一人が強い個性を持つ守護聖たちの、その全員から一目置かれ、かつ好感を持たれていたのだ。
考えれば考えるほど、去りゆく人の掛け替えの無さ、存在の大きさが際だってくるようで、水の守護聖は思わず溜息をついた。
やがて闇と水の守護聖が宮殿前まで戻ってくると、突然、前方から大きな怒声が聞こえてきた。
「……うるせーな、離せよ!」
「だから、どうしていつもそういう態度なんだ! お前も守護聖なんだから、もっと……」
「守護聖が何だよ、俺は最初っからそんなもの、なりたくなかったって言ってるだろ!」
騒々しく階段を駆け下りてくるのは、鋼と風の守護聖だった。
少年たちは怒鳴り合いに夢中らしく、前に人がいるのにも気づかない様子でどんどん近づいてくる。
(クラヴィス様――)
急いで闇の守護聖に目を向けると、こちらはこちらで周囲の何物も眼中になく、少年たちの真下にあたる場所から、ただまっすぐに階段を上ろうとしている。
もはや止めようもない速度になって、自分の方へ突進してくる少年たちを、避ける気配もなく。
「危ない!」
青銀の髪の青年は、とっさにクラヴィスを追い越すと、両腕を開いて少年たちの前に立ちふさがった。
「うわ、何しやがる!」
「だ……リュミエール様!?」
間一髪の所で、ゼフェルとランディはその半身ずつを抱き止められ、同時に黒衣の守護聖も歩みを止めた。
自分たちを腕ずくで止めたのが誰なのかに気づくと、鋼と風の守護聖は意外そうに目を丸くしたが、リュミエールはそれ以上に茫然としていた。
腕から痛いほどに伝わってくる、筋肉のしなやかな弾力。まだ細作りな肩骨の硬さと、生命そのもののような瑞々しい温もり。不均衡とも思われるそれらの感触が、まるで少年たちの不安定さを表しているようで、ひどく幼気に感じられるのだ。
(この子たち……は……)
彼らの心の脆さを、初めて直接感じたような気がして、水の守護聖は二重の衝撃を受けていた。
もしかしたら自分は、これまで彼らの事を、本当に親身になって考えていなかったのかも知れない。17、8歳といえば、まだ精神的に未熟な面が多くてもおかしくない年頃だ。少なくとも自分がその歳だった頃は、気後れと緊張ばかりの毎日だった。周囲の助けがなければ何もできないほど、弱く臆病な少年だった。
(周囲の……助け……)
「あのう、リュミエール様」
戸惑いながら掛けられた声に、青年ははっと我に返った。
「ああ、ランディ……大丈夫でしたか」
急いで腕を解き話しかけると、風の守護聖は元気な声で答えてくる。
「はい。どうもすみませんでした。ほらゼフェル、お前も謝れよ」
「っせーよ、てめーに言われなくたって……ま、とにかく助かったぜ。あんたが止めてくれなきゃ、クラヴィスと正面衝突してた所だったからな」
鋼の守護聖もばつが悪そうな表情で、謝罪とも感謝ともつかない言葉を口にする。
「いいえ」
微笑みながら答えるリュミエールは、少年たちに対して、これまで以上に温かい気持ちが湧いてくるのを感じていた。
(助けてあげたい、守りたい……カティス様も昔、このように私をご覧になっていたのでしょうか)
今自分が為すべきなのは、悲しむ事ではなく、全ての仲間たちを見守っていく事なのかもしれない。常に皆の和を計ってきた緑の守護聖の意志を、無にしないためにも。
沈んでいた心がようやく前を向き始めたような気がして、青年は安堵したように息を付くと、後ろを振り返った。
だが、そこにいたはずの闇の守護聖は、いつの間にか姿を消していた。