水の章・3−2
2.
翌日、緑の館を訪れたリュミエールは、申し訳なさそうに頭を下げながら、闇の守護聖の欠席を告げた。
「すみません。お誘いするお許しをいただきながら、またクラヴィス様をお連れできませんでした」
「そうか……残念だが、別にお前のせいじゃないんだし、謝る事はないさ」
カティスは、その彫りの深い男らしい顔立ちに、慰めるような微笑を浮かべて答えた。
「申し訳ありません」
「だから、謝るなったら」
リュミエールの頭を、軽く指ではじく振りをすると、緑の守護聖は陽気な声に戻り、広い居間に作りつけのキッチンカウンターに歩み寄った。
「さて今日は、俺の新作ブレンドのコーヒーを試してもらおうか。うちの野菜で作ったキッシュもあるから、遠慮しないで食べていってくれよ」
「それは楽しみですねー。今度は、何処のどんな豆を使ったんですか、カティス?」
もう一人の客であるルヴァが、興味深そうに尋ねてくる。
屋敷の主そのままに、気取りなく寛げる温かい空間。誰とでも気さくに付き合えるタイプのカティスと、物静かで穏やかさを好むルヴァ。
こういう場になら、或いは出向く気になってくれるかも知れないと、淡い期待を持って、何度も誘いを掛けたのだが……
(……クラヴィス様)
深い海の色を宿した瞳が、遠い想いの中にさまよい出ていく。
闇の守護聖の、人付き合いを避ける態度は、以前と少しも変わってはいなかった。
唯一、そして毎日側にいる事を許された自分に対してさえ、職務上の伝達と、用件を表す数種類以外、言葉を掛けようともしない。
それどころか、付き従ってきた長い時間を通して、リュミエールは彼の瞳に − それが、何に対してのものであろうと − 最初に会った時のような穏やかな表情を、一度も、そして僅かでも見いだした例しがなかった。
凍てつき閉ざされた心と知った上で、だからこそ側にいたいと思う気持ちは、今も変わっていないけれど……
「リュミエール、どうしました?」
地の守護聖の、おっとりした声が聞こえてきた。
「あ……すみません」
自分がカウンターの椅子に掛けたまま、物思いに耽っていたのに気づくと、若者は慌てて謝った。
すると今度は、緑の守護聖が尋ねてくる。
「気にしているのか、クラヴィスの事を」
咎めるでもからかうでもなく、ただ端的に聞いてくるその声に、リュミエールは、正直に頷くしかなかった。
「……本当に、お二人には、ご迷惑ばかりお掛けしてしまいます」
「そんな事は、どうでもいいが」
健康そうに日焼けした緑の守護聖の面が、気遣わしげに傾けられる。
「あまり気を落とすなよ。そう簡単に、人は変わるものじゃない……特に、あいつはな」
「カティス様」
青銀の髪の若者は、驚いたように相手を見返した。
(あの方が、変わる……)
そのような大それた事を、自分は望んでいるのだろうか。
ただ近くで見守りたい、疲れや痛みを僅かでも遠ざけ、和らげて差し上げたいと、それだけを、願い続けてきたはずなのに。
だが、既にそれが、「変わる」という事なのかもしれない。
想像も付かない永い時間を、傷や渇きと共に生きてきた人にとっては。
リュミエールは、青銀の睫を伏せると、自らを責めるように話し出した。
「分かっているつもりです、私などが立ち入ったところで、あの方の闇の深さには、些かの変わりも無いだろうと。変わるよう望む事自体が、そもそも、分を弁えぬ厚かましい思いなのだと……それでも」
そこまで言うと、若者は言葉につまり、細い指を膝の上で握りしめた。
それでも、夢見てしまったのだ。
閉ざされた心が、少しずつでも開かれ始める日が来る事を。
そしていつか、苦しみに凍ったあの眼差しが、穏やかな幸福に彩られる事を。
側にいられるようになってから、却って強くなり、胸を塞いでいく思いの正体 − あまりにも儚く、叶うあてのない希望を、自分は持ってしまったのだ。