水の章・3−21


21.


 水色と白を基調にした部屋の奥、古びた大机の上で、時計が執務の終わりを告げている。

 処理を終えた書類を見直していたリュミエールは、ふと手元の予定表に目を留めると、深い溜息をついた。

(緑の守護聖交替式典まで、あと二日……)

 職を解かれた守護聖はみな、速やかに聖地を出る事になっている。実際にいつ出立するかは本人の意志で決められるが、殆どの者が式の当日か、遅くとも2、3日後には旅立っている事から考えて、恐らくカティスとゆっくり話すような機会は、もう巡って来ないだろう。

 感謝と惜別の気持ちは、できるかぎり伝えてきたつもりだ。公に私に設けられた別れの宴も全て済んでしまったし、自分の中でも少しずつ、この別れへの気構えができてきたようだ。

 なのにまだ、心の奥でくすぶり続ける思いがある。

(カティス様にうかがえば、教えていただけるかもしれない……クラヴィス様を苦しめる闇の正体を)

 闇の守護聖について話す時、 カティスは他では見せない意味深長な表情をする事があった。リュミエールはずっとそれを、単なる同僚としての心配だろうと思っていたが、退任を知り、共に過ごした時間に思いを馳せる事が増えてくるに従って、次第に別の考えが浮かぶようになってきたのだ。

 もしクラヴィスが囚われている闇に、何か原因となる出来事があったとしたら、カティスがそれを知っているのではないか、と。

 就任時期から言うと、他の守護聖にも可能性はあるものの、ジュリアスが知っているかどうかは見当も付かないし、ルヴァは知っていても話したがらないような雰囲気がある。だが、クラヴィスとの関わり方について、最も親身になってくれた緑の守護聖ならば、もしかしたら教えてくれるかもしれない。

 しかし一方で、カティスの見せた表情を思い出すと、果たして尋ねて良いことなのだろうかと躊躇われ、つい言い出せないままに、つい今日まで来てしまったのだ。

 去っていく人に対して、何と身勝手な気持ちを抱いているのかと自らを責め、それでも消えようとしない焦りを持て余しながら、水の守護聖は重い足取りで執務室を出た。




 階段を下り、正面玄関に向かっていた青年の背後から、誰かが呼びかけてきた。

「リュミエール、今から帰る所か?」

目を丸くして振り向く水の守護聖に、カティスが苦笑しながら歩み寄ってくる。

「そんなに驚いたか?」

「あ……いえ、失礼いたしました」

「なに、謝るほどの事じゃないさ。それより今夜、うちで夕食でもどうだろう?」

 予想もしていなかった招待だったが、このような時期でも仲間付き合いを大切にする所は、いかにもカティスらしい。それに何より――クラヴィスの事を尋ねるかどうかはともかく――共に過ごせる機会を得られたのが、リュミエールには嬉しかった。

「ありがとうございます。喜んで伺わせていただきます。他にはどなたがいらっしゃるのですか」

「いや、今日は他の奴は呼ばないつもりだ。もちろんマルセルは一緒だが、お前が来てくれたら、きっと喜ぶと思うぞ」

 緑の守護聖が一人だけを招くのは珍しいと思いながら、リュミエールは簡単に時間を打ち合わせると、ひとまず私邸へ戻っていった。






 水の守護聖の馬車は、約束の時間ちょうどに緑の館の門をくぐった。

 よく手入れされた庭や菜園、温かく落ち着いた雰囲気の屋敷を眺めていると、何となく見納めのような気分になってくる。

 しんみりした気持ちを切り替えようと、リュミエールが窓から視線を逸らして間もなく、馬車は静かに止まった。

「リュミエール様、こんばんは!」

扉が開くとすぐ目の前に、さらさらした金髪を背に束ねた少年が立っていた。

「夕食にいらっしゃると聞いて、僕、とっても楽しみにしていました。うわあ、綺麗なお花ですね」

水の守護聖が携えてきた花束を見て、大きな瞳が更に見開かれる。

「こんばんは、マルセル。これはお招きのお礼に、私の庭から切ってきたのですよ」

「カティス様も、きっと喜ばれると思いますよ。居間でお待ちですから、さあ、どうぞ」

次期緑の守護聖は、弾むような足取りで、屋敷の奥へと客を誘っていく。

 守護聖の私邸ではこういう場合、家令が出迎えるのが一般的なのだが、恐らくこの少年は、私的な客なら直接出迎えても構わないと教えられたのだろう。

(カティス様らしい……)

間もなく別れる相手の心の温かさに、改めて感じ入った気持ちで、リュミエールはそっと睫毛を伏せた。

 二人の現職守護聖と一人の次期守護聖は、緑の館らしい晩餐――素朴さを残しながらも丹念に手間をかけて仕上げられた料理の数々――を和やかに楽しむと、居間に場所を移し、宇宙の話から草花の話まで、夜が更けるのも忘れて話し込んだ。

 だがそのうち、マルセルが次第に黙りがちになり、小さなあくびを漏らし始めた。

「うん? マルセル、もう寝た方がいいんじゃないか」

「あ……すみません、カティス様。僕、まだ……大丈夫……ですから」

答える間にも瞼がふさがっていく少年の肩を揺すり、カティスは低いがきっぱりした調子で言った。

「無理はするな」

「はい、すみません。リュミエール様、失礼します……おやすみなさい」

自分の限界を悟ったのだろう、少年は何とか安楽椅子から立ち上がると、少し危なげな足取りで居間から出ていった。




「素直ないい子ですね」

微笑みながらマルセルを見送った青年は、カティスを振り向きながら言った。

「ああ。元々が優しい質な上、あの年齢にしては視野が広いし、勘もいい。きっと立派な守護聖になるだろう」

ゆっくり答える声には、引き継ぎという最後の仕事を終えた充実感と、恐らくは寂しさや葛藤を超えて得たのであろう、達観したような穏かさが満ちている。

 目の前で微笑む人が、今にもどこかに去ってしまいそうな気がして、リュミエールは思わず呼びかけていた。

「カティス様、あの――」

緑の守護聖はどうしたというように、やや首を傾げて見返してくる。




 この温かい眼差しに、包容力の現れた声に、どれほど自分は助けられて来ただろう。そんな相手から、恐らくは辛いであろう思い出を聞き出す事が、許されるのだろうか。

 だが今を逃せば、クラヴィスの過去を尋ねる機会は、もう二度と訪れないだろう。間違いなく、永遠に。


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