水の章・3−22
22.
相反する二つの思いに挟まれて、次の言葉を発する事もできないでいる後輩を、緑の守護聖は黙って見返していたが、やがて穏やかな声で言った。
「クラヴィスの事で、何か困っているのか」
驚いて息を飲む青年に、カティスは包み込むような微笑を向ける。
「お前がそんなに思い詰めた顔をするなんて、他に考えられないからな」
「……すみません」
退任直前である今に及んで、まだ自分が心配を掛けているのに気づき、水の守護聖は消え入りそうな声で謝った。
だが緑の守護聖は軽く頭を横に振り、それからまっすぐに後輩を見つめた。
「何をためらっているか知らないが、とにかく言ってみたらどうだ? 俺が聞いてやれるのもこれが最後だろうし、遠慮しない方がいいぞ」
その言葉に後押しされるように、リュミエールは覚悟を決めた。どのみち、ここまで気づかれてしまったのなら、黙っていたところで余計心配させるだけだろう。深く頷いて最後の逡巡を振り切ると、青年は抑え込んでいた問いをついに口にした。
「カティス様は、あの方が今のようになられた原因を……ご存知なのでしょうか」
緑の守護聖の落ち着いた風貌を、大きな影が覆ったように見えた。
「ああ。知っているよ」
辛そうに眼を閉じると、カティスは低く言葉を継いだ。
「だが、教えてやる訳にはいかないんだ。すまない」
抑えられた口調に苦渋を感じ取ったリュミエールは、慌てて謝り始めた。
「いいえ、私こそ申し訳ありませんでした。思い出したくないご様子なのを知っていながら、わがままを抑えられなくて……」
身の置き所もない様子の後輩に、緑の守護聖はもう一度頭を振ると、安楽椅子の背に深くもたれかかった。
「お前の強さが羨ましいよ。優しさが生み出す、その強さが」
「カティス様……?」
疲れた表情でて瞼を上げる先輩守護聖を、リュミエールは当惑したように見つめた。
「随分悩んだんだろう?クラヴィスのために聞くべきか、俺を思いやって聞かないでおくべきかと。それでも最後まで、どちらも諦めようとしなかったから、最後には状況の方が変わっていったんだ。両方のためにも質問した方がいい、というように――お前には、そういう強さがあるんだよ」
カティスはそこで大きく息をつき、そして続けた。
「原因そのものについては話せないが、それに関係して一つ、お前に言わなければならない事があるんだ。どう切り出そうかと思っていた所だったから、質問してくれて助かったよ」
話が長くなりそうだからと、緑の守護聖は自らコーヒーを淹れると、安楽椅子まで運んできた。礼を言って口を付けたリュミエールは、その香り高い飲み物が、自分好みの軽い味に仕上がっているのに気づいた。
カティスも旨そうに一口含むと、考えをまとめるように黙り込み、それからおもむろに話し始めた。
「原因となった事件の成り行きを、俺はすぐ近くで見ていたようなものだった。当時は、悲しいが誰にもどうしようもなかった事だと思っていたが……魂ごと闇に飲み込まれてしまったような、あんなクラヴィスの様子を見続けていると、自分の取った行動が正しかったのだろうかと――あの時もっと何かをしていたら、あるいはしないでいたら、もっと違った結果になっていたんじゃないかと――そんな風に考えるようになってきたんだ」
幾度か見た暗い眼差しが、その男らしい風貌を陰らせていく。
「しかし俺がどう思おうと、もうクラヴィスには、どんな言葉も働きかけも届かなくなっていた。元々人と関わりたがらない所はあったが、あの事件の後は誰に対しても、まるで意識をどこかに置いてきてしまったような、抜け殻のような眼しか向けなくなっていたんだ――少なくとも、お前が聖地にやってくるまでは」
「私が?」
唐突に話に登場させられて、青銀の髪の青年は思わず聞き返した。
緑の守護聖は深く頷くと、薄く自嘲の混ざった微笑で続ける。
「お前があいつに興味を持っていると知った時、正直に言って俺は、同情してしまったんだ。どんな事をしてもあいつが変わるはずがない、他人の好意など拒むに違いないと思ってな。浅はかな考えだったよ、実際にはお前は、拒まれるどころか受け入れられ、影響まで与えるようになったんだから」
「そのような……私を買いかぶっていらっしゃいます」
最後の言葉に驚いて、水の守護聖は思わず身を退いていた。
「何だ、もしかしたらお前、自分がしてきた事に気づいていないのか?」
カティスは、意外そうな眼差しで後輩を眺めた。
「それじゃまさか、あいつが初めてこの館に来た時の事も、未だに酒目当てだとか思っているんじゃないだろうな。一応言っておくが、あれは他でもない、お前が声をかけ続けたからこそ起きた事なんだぞ。第一、酒で動いてくれるのなら、俺がとっくに何とかしていただろうさ」
リュミエールは茫然とした表情で、緑の守護聖を見返した。
自分のする事が、果たして少しでもクラヴィスのためになっているのか。あの凍てついた心を僅かでも、ほんの一瞬でも動かす力になっているのだろうか――ずっと思い悩んできた事への回答が、信頼のおける人の口からもたらされたのだ。
「本当に気づいていなかったのか……まったく大した奴だな、そんなに自信がないのに諦めず、クラヴィスに働きかけ続けるなんて」
感慨のあまり言葉も出ない青年に、緑の守護聖は労るように、また感じ入ったように微笑みかけた。
そしてしばらく――時折コーヒーを口にしながら――後輩を見守っていたが、間もなく落ち着きを取り戻し始めたのを見て取ると、安心したように話を続けた。
「さて、もう少し話を聞いてもらおう。というより、ここからが本題なんだが――そうやって、お前がクラヴィスを助けられるようになってきたのを見て、俺は安心してしまった……いや、安心したつもりになってしまったんだ。もうあいつの事はリュミエールに任せればいい、できるだけの応援をしてやれば、これ以上俺が責任を感じる事もないだろう、とな」
(……カティス様?)
思いがけない言葉に、リュミエールは眼を見開いた。
緑の守護聖は、静かだが苦さの滲み出た口調で、話を続ける。
「もちろん、純粋にお前を助けてやりたい気持ちもあったし、今でもそう思っている。だが心のどこかに、全てを押しつけて楽になりたいという、卑怯な思いがあったのも事実なんだ。だから口では“無理にクラヴィスに関わり続ける事はない”なんて言いながら、俺は無意識にお前をけしかけたり、プレッシャーさえかけていたかもしれない」
険しささえ感じるほど厳格な眼差しで、カティスは後輩に告げた。
「いつか謝らなければならないと思っていたよ……すまなかった」
「カティス様……」
水の守護聖は、胸の詰まる思いで呟いた。
自分より遥か昔から聖地に在り、闇の守護聖と関わり続けてきたこの人もまた、他人には知り得ない多くの思いを経てきたのだろう。長い葛藤の中、後輩に頼って楽になりたいという考えが、たとえ頭を掠める事があったとしても、卑怯だなどとはとても思われない。むしろ、隠し通そうと思えば出来たそれを相手に告げ、謝罪した誠実さに、リュミエールは心を打たれていた。
「どうか謝ったりなさらないで下さい、けしかけられたりプレッシャーをかけられたような覚えは、私には一度もなかったのですから。それに、もしあの方のお世話をする事で、カティス様のお心が少しでも楽になられたのでしたら、これほど嬉しい事はありません。今まで励ましていただいたご恩へのお返しには、とても足らないとしても」
緑の守護聖の表情が徐々に和らぎ、視線が伏せられていく。堅く結ばれていた唇が僅かに緩み、深く長い息が漏れていった。
「ありがとう」
落ち着いた声で言うと、カティスは面を上げた。いつも通り温かく、どこかいたずらっぽい表情が、そこに戻ってきていた。