水の章・3−23
23.
それから間もなく、水の守護聖は暇を告げた。いくら話していても名残は尽きないが、退任日間近という忙しい時にあまり遅くまで留まってはいけないだろうと、思い切って帰る決心をしたのだ。
その気持ちは館主も同じらしく、残念だがやむを得ないという表情で家令を呼ぶと、来客の馬車を車寄せに回させるよう告げた。
だが玄関に向かう途中、緑の守護聖はふと思い出したように口を開いた。
「リュミエール、さっき話したクラヴィスの件だが――もしかしたら、あの事件だけが原因ではなかったのかもしれない」
驚いて見返す青年に、カティスは言葉を選ぶように慎重な口調で続けた。
「これは俺の主観に過ぎないし、気づいた当初はそれこそ、責任逃れのために思いこんでいるんじゃないかと自分でも疑ったくらいだから、確信があるとは言えないんだが……後から考えると、あの事件以前からあいつには、今の状態の片鱗とでもいうのか、闇に囚われている兆しが現れていた気がするんだ。もちろん、単なるサクリアの影響なんていうレベルじゃないほどの、な」
「それは……」
「あくまで可能性としてだが、あの事件は原因の一部か、きっかけに過ぎなかったかもしれない、という事だ」
困惑の表情で俯くリュミエールに、緑の守護聖は申し訳なさそうに付け加えた。
「すまなかったな。半端な情報で混乱させていいものかと迷っていたんだが、やはり俺の中にある事は、全て教えておいた方がいいと思ったんだ」
「いいえ……」
答えようとして顔を上げると、心配そうにこちらを見つめるカティスと視線が合った。今教えてもらった推測が当たっているかどうかは分からないが、自分がどれほどの気遣いを受けているかは、その双眸を見るだけで伝わってくる。
「私は大丈夫です。それよりも、色々教えて下さってありがとうございました」
感謝のこもった返事と共に青年が微笑んだ、ちょうどその時、二人は玄関に着いた。
大きな扉が開けられると、星々に飾られた深更の空が、全てを飲み込むように拡がっていた。
その無辺の漆黒に、守護聖たちは今さらのように見とれていたが、やがてカティスが呟くように言い出した。
「この宇宙を駆け続けてきたんだな、ずっと……」
先刻とは違う、懐かしむような、遠い眼差し。
「時々思っていたんだ、守護聖というのはリレー競技の走者みたいだと。速さを競う訳じゃないし、距離も交替する場所も一人ずつ違っているが、力と思いを宇宙中に巡らせていつも九人で走り続ける、そんな終わりの無いリレーに出ているような気がする――していたんだよ」
自分に言い聞かせるように言葉を過去形に直すと、カティスは後輩を振り向いた。
「もうあと少しで、俺は聖地の誰とも関われなくなるし、見守る事もできなくなる。けれど、どこにいてもお前たちの幸せを祈っているよ。共に走ってきた大切な仲間として」
力強く温かな言葉に、リュミエールはただ感謝の礼を取る以外、為す術を知らなかった。
星空の下を走り出した馬車の中で、青年はカティスの言葉を思い出していた。
(幾百幾千の交替を繰り返しながら、常に九人で宇宙を走り続けていく走者たち……)
だがそれは、外界で生きている人たちにもあてはまる事ではないだろうか。世代を越えて受け継ぐ生業を持つ者はもちろん、そうでない者も、前の代から何かを受け取り、次の代に何かを受け渡しながら、人間の歴史という道を走り続けている。
守護聖の場合はそれが宇宙の歴史となり、一人あたりの走路が途方もなく長くなっているが、いつか終わりが来る事に変わりはない。
そして、自分の距離を走り終えた後は――
カティスの退任を知った日の、まるで足下が崩れてしまったかのような衝撃が蘇り、リュミエールは思わず身震いした。
他の守護聖と同じように、自分やクラヴィスにも、退任の時は確実に訪れるだろう。なのに、最初から分かっているその事実を、どうしても受け入れられない。闇の守護聖が去った後の聖地も、彼を残して一人出ていく外界も、自分にとっては無の世界としか思われないのだ。
(いつの間に私は……これほどあの方に頼り、執着していたのだろう)
自らの動揺に驚きながら、水の守護聖はなおも考えていた。
先刻カティスは、クラヴィスと関わるようリュミエールをけしかけていたかもしれない、プレッシャーを与えていたかもしれない――実際にはそういう事はなかったのだが――と言った。
では、もし逆に、闇の守護聖に近づかないよう誰かから忠告、あるいは強要されていたら、自分はどうしていただろうか。
青銀の髪の青年は、小さく頭を振った。
それでもきっと、自分の態度は変わらなかっただろうと思う。きっと、今とほとんど変わらず、クラヴィスの側にあってその世話をしていたに違いない。
他人の言葉を無視するなど自分らしくないとは思うが、闇の守護聖から離れるのは、さらに自分らしくないように感じられるのだ。
その時、馬車がゆるい勾配にさしかかり、リュミエールは今自分がいる場所に気づいた。
(この森の向こうに……あの方のお屋敷がある……)
今頃はお気に入りの椅子でカードを繰っているか、それとも寝室の窓から星を見ているのだろうか。
手に取るように頭に浮かぶその光景を眺めているだけで、心が満ち足りていくのが分かる。喜びや悲しみのほとんどがその人の存在に、その人の為す事の一つ一つに、左右されているのが感じられる。
それが、良い事なのか悪い事なのかは分からないが……
(ただ、時も宇宙も移ろいゆく中で、唯一変わり得ないものがあるとすれば……それは私の、この状態なのかもしれない)
無意識に思ってから、リュミエールは一人で当惑した。古来、人の心こそ最も移ろいやすいものだと言われているのに、いったいどういうつもりでこんな事を考えてしまったのだろう。
そういえば、以前よく似た考えを抱いた覚えがある。鋼の守護聖が交替した後だったろうか、理由の分からない不安に襲われて意気消沈してしまった事があった。だが、偶然の成り行きでクラヴィスが水の館に来る事になると、すっかり気分が良くなってしまったではないか。
闇の館の庭を一人で歩いたのも、ちょうどその頃だったように思う。あの時は、ずっと館の建物から離れるように進んでいたのに、知らない間に歩みが弧を描き、館の方へと戻ってしまっていた。
(どこへ行こうと、私はクラヴィス様から、クラヴィス様へ……まるで、あの方に吸い寄せられてでもいるかのように……)
自らの裡に育ちつつある想いの強さに、リュミエールは怯えにも似た戸惑いを感じていた。