水の章・4


1.


 蒼ざめた月の光が、針葉樹の輪郭を鋭く浮かび上がらせている。むきだしの岩は鉄のように堅く冷たく、辺りには生き物の棲まう気配もない。

 上方では宇宙の深淵が、黒々と口を開いている。その中にあっては銀河さえも淡く儚く、まるで闇の強大さを引き立てるために存在しているかのようだ。

 終わりのない夜。春の来ない冬。流れない時間。




 描きかけの水彩画を眺めて、青銀の髪の青年は溜息をついた。気鬱を紛らそうと、ただ思いつく光景を描いていたはずだったのに、筆を置いて見直せば、そこには自分の気持ちそのものが、あまりにも明らかに現れているではないか。

(クラヴィス様……)

画中の月を見つめながら、リュミエールは呟いた。

(お心は……まだ戻らないのでしょうか)

繊細な面差しが絵を離れ、闇の館の方角に向けられていく。朝の明るい日差しの中、その海色の瞳は切なそうな影に満ちていた。




 気づいたのは、緑の守護聖交替式典の前日だった。

 切れの長い紫の双眸に、あの凍った色が戻ってきている。表に出る態度こそ普段と変わらないが、声にも仕草にも、心というものが全く感じられなくなっている。闇の守護聖の意識が、またどこか遠くに囚われてしまったのを、リュミエールは即座に悟った。

 幾度目か知れぬその痛ましい状態が一刻も早く終わるよう願いながら、彼は待ち続けた。だが数日がたち数週間が過ぎ、新任のマルセルが年少守護聖たちとすっかり打ち解けてしまった今なお、クラヴィスの様子には少しの変化も見られない。この状態がここまで長く続くのは、リュミエールの知る限り初めての事だった。

(もしこのまま、ずっと戻らなかったとしたら……)

胸をよぎる不安を打ち消すように頭を振ると、青年は時計に眼を向けた。そろそろ、闇の館に週末の訪問をする時間である。

 今のような状態にしては珍しい事だが、クラヴィスが特に人を遠ざけようとしていないので、リュミエールはそれまでどおりに執務室や私邸を訪れていた。

 だが、言葉に返事をもらっても、それが意識のほんの表層の働きに過ぎないのが感じられる。まれに視線を合わせる事ができても、自分の存在が眼に入っていないのが、はっきりと伝わってくる。こうした辛さが日々を追うごとに募っていき、いっそ自分を遠ざけてくれたらとさえ思う事もある。

 それでもクラヴィスの苦しみを思うと、心配で目が離せない。それに、いつ元の状態に戻るかもしれないという、あてのない期待もある。

 疲れ傷つきながら、結局はリュミエールも以前と変わらず、こうして闇の守護聖の側に付き続けているのだった。




 淡色の馬車が木立の間を進み、闇の館への距離を縮めていく。聖地の明るい日差しの下、草木はいよいよ健やかに美しく、緑のサクリアが完全に正常に戻ったのを伝えてくれる。

 窓外の景色に目を細めながら、水の守護聖はカティスに招かれた最後の夜を思い出していた。あの帰り道、自分はクラヴィスへの並外れた思い入れに初めて気づいたのだった。

 その自覚は動揺を呼び、動揺は恐れとなり、気持ちを抑えるべきではないかという迷いへと変わっていった。そして悩みながら迎えた翌朝、闇の守護聖の心は、すでに現のものではなくなっていたのだった。

(これは、罰なのでしょうか……過ぎた執着を抱いてしまった私への)

 恐ろしい考えに、水の守護聖は身震いした。だがそれならば、何もクラヴィスを巻き込む必要はないだろう。何か他の方法で、この自分だけが苦しむ罰を下せばいいではないか──

 逆恨みのように憤っている自分に気づき、青年はまたも動揺を覚えた。どうしてなのだろう、あの方に関わる事となると、いつもこのように感情が先走り、落ち着いて考えられなくなってしまう。

 まったく、この心の裡に、いったい何が起きているというのだろう。




 思い悩んでいる間にも馬車は走り続け、間もなく闇の館に到着した。いつものように居間に通されたリュミエールは、家令が主を呼びに行くのを見送りながら、演奏の準備を始めた。

 だが今日に限って、クラヴィスはなかなか姿を現さない。寝起きが良くないのは知っているが、それにしても時間が掛かり過ぎている。まさか、どこか身体の具合が悪いのだろうか。

 以前は寝室まで様子を見に行く事もあったが、今の状態ではそれも気がひけて、水の守護聖はただ待ち続ける事しかできなかった。

 かなり経ってから、ようやく家令が居間に戻ってくると、言いにくそうに口を開いた。

「申し訳ありませんが、今日はお引取りいただきたいとの事です」

リュミエールは最初、言われた意味が分からなかった。家令に何度か繰り返してもらい、さらに健康上の理由ではなさそうだという意見を聞くうちに、ようやく理解はできるようになったが、今度は驚きのあまり、身動きが取れなくなってしまった。

 闇の守護聖に、何かが起きている。それが良い事かどうかはわからないが、とにかく相手の態度に変化が生じたのは確かだ。

「では……お邪魔いたしました、と伝えてください」

やっとの思いで家令に答えると、青年は呆然とした表情で帰途についた。

 クラヴィスに会えなかったのは寂しいが、今日まで訪問を拒まれなかった事自体が異例だったのを思えば、この状態に終わりが見えてきた兆しとも考えられる。もちろんそれが思い違いであって、ぬか喜びに終わる事も大いにあり得るのだが。

 いずれにしろ明日、月の曜日には会えるはずだ。もし執務室への訪問が許されなかったとしても、午後には集いが予定されているのだから。

(どうか……あの方のご様子が、少しでも良くなっていますように)

不安と期待、喜びと心配の間を揺れ動きながら、水の守護聖は祈るように呟いた。


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