水の章・4−2


2.

 月の曜日、さっそく闇の執務室を訪れたリュミエールは、前日の家令と同じように申し訳なさそうな表情をした侍従に、こう告げられた。

「クラヴィス様のお言いつけで、どなたであろうとお通ししてはならないとの事です」

予想できなかった事態でもないが、実際に断られてみると、やはり気持ちが沈んでしまう。

(それでも……午後の集いがあるのですから)

何とか気持ちを切り替えながら、水の守護聖は自分の執務に戻っていった。




 やがて昼休みになり、久しぶりに食後をひとりで過ごしていると、珍しくも夢の守護聖が訪ねてきた。

「はーいリュミエール。竪琴が聞こえてこないから、どうしたのかと思って見に来ちゃったんだけど……出張演奏、今日はお休み?」

「ええ、クラヴィス様のご都合がよろしくなかったようなので」

答えながら水の守護聖は、相手の執務室がクラヴィスの部屋の真下にあるのを思い出していた。

 最近──といっても、今のような状態になる前だが──闇の守護聖は気が向きさえすれば、カーテンを閉めたままという条件つきで執務室の窓を開けさせてくれるようになっていた。きっとそのせいで竪琴の音がもれて、彼の耳にも届いていたのだろう。

(そう、今にして思えば……)

この状態に陥る前、あの方はほんの僅かずつでも変わり始めていたのかもしれない。心を開き始めていたのかもしれない。そして、もしかしたら自分も、更に僅かずつであっても、そこに近づきつつあったのかもしれない……

(なのに、今は……)

「何かあったの?」

思いがけず近くから声を掛けられて、水の守護聖は声をあげそうなほど驚いた。いつの間にか眼の前にきていたダークブルーの瞳が、まっすぐこちらの面を覗き込んでいる。

「いえ、あの……」

リュミエールは口ごもった。打ち明けるにはあまり私的に過ぎる悩みのように思われる。だが、勘も鋭ければ人情にも聡いこの夢の守護聖をごまかすなど、自分には至難の業だろう。

 答えあぐねて黙っていると、昼休みの終わりを告げる鐘が聞こえてきた。

「ああ、もうこんな時間でしたか。オリヴィエ、一緒に集いの間に行きませんか」

懸命に誘いかけると、美しさを司る青年は軽く頷いた。

「いいけどさ……ねえ、定例の集いって、本当に意味がないと思わない? 議題のある時だけにしときゃいいのに」

「そう……ですね」

話題が変わった事に安堵しながら、水の守護聖は同僚と連れ立って執務室を出た。

 陽光に満ちた広い廊下を歩いていくと、やがて宮殿中心部に向かう路と、光・闇・風の執務室に続く路との分岐が見えてくる。リュミエールは無意識に、通いなれた方角に眼を向けていた。毎日のように訪れていた暗い部屋が、とても遠くにあるように感じられる。幾度となく開いた大きな扉がひどく重いもののように、そして堅く閉ざされているように見えてくる。

 ため息をついて視線を戻したリュミエールは、同僚が自分を見つめているのに気づいた。

「あ……すみません、私は……」

「行こうか」

オリヴィエは何も問わず、ただ優しい声でそう言うと、集いの間に向かって歩き出した。




 しばらく進んでいくと、背後から硬い靴音が響いてきた。振り返れば燃えるような赤髪の同僚が、足早に歩いてくるところである。

「どうしたのオスカー、そんなに急いじゃって。ナイショの夜遊びが誰かさんにバレそうなもんだから、裏工作に走ってるとこ……とか?」

からかうように声をかけたオリヴィエに、炎の守護聖はにこりともしないで答える。

「くだらん事を言ってるんじゃないぜ、極楽鳥。俺はもっと……」

何かを言いかけて思い直したのか、オスカーはいっそう足を速めると、二人を追い越しながら言葉を続けた。

「先に行くぞ。お前たちもさっさと来いよ」

「余計なお・世・話!」

オリヴィエは軽く顔をしかめて答えたが、すぐに表情を戻すと、興味深げに呟いた。

「……とはいえ、あの険しい眼はただ事じゃないね」

「オリヴィエ、あなたは……」

彼がそこまで相手の表情を読んでいた事に、リュミエールは改めて驚いていた。自分を飾る事にしか関心がなさそうに見せながら、この同僚はいつも、誰よりもよく周囲を見ているように思われる。このような気配りこそが、優しさと呼べるのではないだろうか。

(彼と比べれば私など、とても……優しいなどとは思われないのに)

なぜ自分が水の守護聖なのだろうかという、就任前から抱き続けてきた疑問が、また心を悩ませ始めた。考えても仕方がないと幾度も諦めようとしているのだが、今のように気持ちの塞いでいる時には、どうしても蘇ってしまうのだ。

(水……聖地の水……)

いつか闇の守護聖が“特別な力がある”と言っていた、神聖な水。それほどのものが象徴する力を、なぜ自分などが司っているのだろうか。

「聖地の水がどうしたって?」

訝しげな声で聞かれて、リュミエールは我に返った。

「あ……オリヴィエ?」

眼を丸くしている同僚の肩を、夢の守護聖は励ますようにたたいた。

「独り言もいいけど、ぼんやりしてると壁にぶつかるよ」

「すみません」

考えが呟きとなって漏れていたのだろう。またもや相手に気を使わせてしまったのに気づき、水の守護聖は恐縮した。

「謝らなくていいって。それよりさ、聖地の水って、何か特別な成分でも含まれてるの? 前にルヴァもどうたらこうたら言ってたけど」

「ルヴァ様が?」

思わずリュミエールは問い返した。

「うん、お肌にいいって話をしたら、あの水は特別ですからねーとかって、化学やら歴史やら引っ張りだしながら話し始めちゃってねえ。ま、例によって長ーくなりそうだったから、最後まで聞かずに逃げ出してきたんだけど……と、もうみんな集まってるみたいだね」

オリヴィエの言葉で水の守護聖は、自分たちが集いの間に着いたのに気づいた。

 正面にジュリアス、ディアを挟んだ横には、いつものようにクラヴィスが立っている。その姿を目にした途端、青銀の髪の青年は、苦しいほどの動悸に襲われた。



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