水の章・3−4
4.
時を感じさせぬ暗色の居間に、厚いカーテンが、今日は隙間無く引かれている。
弱々しい間接照明のみの暗がりの、その最奥に置かれた安楽椅子に、館の主が深々と腰掛けている。
思いがけぬ客の訪れを家令に告げられ、その臈長けた端正な面に、不審の色を宿らせて。
「失礼いたします。クラヴィス様」
静かだが、どこか力強い足取りで入ってきた若者は、まるで自らの躊躇に先んじようとするかのように、いつになく早い口調で、誘いの言葉を口にした。
「昨日申し上げたお茶会ですが、もし、お気が変わられたらと思いまして、こうしてお誘いに参りました。宜しかったら、今からいかがでしょうか?」
不審に驚きが加わり、切れの長い双眸が、微かに見開かれる。
だが、その薄い唇から、言葉が発せられる気配はない。
可か不可かを現す表情の片鱗も見えぬまま、リュミエールにとっては、日も暮れるかと思われる程の時間が経った。
以前の自分なら、このような沈黙には、きっと耐えられなかっただろう。誘いの言葉を途中で取り下げ、謝って退出していた事だろう。
だが若者は、自らにの心に言い聞かせていた。
少なくとも、クラヴィス様が機嫌を損ねられたとはっきり分かるまでは、勝手に気を回して躊躇ったり遠慮したり、挙げ句落ち込んだりするのは、止めよう。この望みこそが、自分の意志であり幸福だと分かったのだから、と。
何の前触れもなく、館の主がその白い手を、呼び鈴の方角に延ばすのが見えた。
若者の大きな瞳に、恐怖に近い色が浮かぶ。
(やはり、お怒りを買ってしまったのでしょうか……だから家令を呼び、私を追い帰させようと……)
失意の淵に落ちていく心の中に、緑の館を出る時、カティスに告げられた言葉が蘇った。
− そうだ、リュミエール。もしあいつが、どうしてもここに来るのを渋るようだったら、俺が今日、取っておきの酒を開けるつもりだと言ってみてくれ。何かの役には立つかもしれない −
軽い口調の中に、真面目な思いやりの込められた声。
その酒というのが、目の前の黒衣の守護聖にとってどれほどの価値を持つのか、リュミエールには見当も付かなかったが、とにかく、好意を無駄にはしたくない。
「クラヴィス様!」
「……何だ」
急いで呼びかけた言葉に振り向きもせず、闇の守護聖は、不機嫌そうに問い返す。
若者は、縋るような震え声になりながらも、緑の守護聖の言葉をそのまま伝えた。
「あの、クラヴィス様がいらっしゃるのなら、取っておきの酒を開けようと、カティス様が仰っていましたが……」
呼び鈴のボタンに置かれた手を動かさないまま、クラヴィスは長い息を付いた。
「……一体、どうしたというのだ」
呟くような言葉と共に、細作りの眉が顰められ、黒い睫が伏せられていく。
やがて闇の守護聖は、ゆっくりと面を上げると、黒いボタンを押した。
(クラヴィス様……!)
若者が、心中で悲痛な声を上げたのと、居間の扉が開いたのとが、同時だった。
この館の習慣なのだろう、黙って指示を待つ家令に、クラヴィスは、誰も思い出せないほど長い間、彼の口から出る事のなかった類の言葉を告げた。
「……緑の館へ行く」
その後の事を思い出す度、リュミエールは不思議な気分に囚われる。
家令に支度を整えさせた黒衣の守護聖と、馬車を共にして、緑の館に向かった……
ルヴァを交えて、カティス手製の軽食や秘蔵のワインで歓待を受けた……
そのまま − 恐らくは誰も、暇を告げるきっかけが掴めなかったのだろう − 夕食までご馳走になり、再び自分の馬車でクラヴィスを送った後、私邸に帰った……
何があったかは覚えているのに、全てが遠い夢のようにぼんやりとしていて、実感が湧いて来ないのだ。
少しだけ思い出せる事といったら、たまたま二人きりになった折りに、カティスと交わした会話くらいのものだろうか。
『こうして、クラヴィス様をお連れできるなんて……カティス様のお酒には、本当に、凄い力があるのですね』
だが、心からの感謝と感嘆を込めて口にした言葉に、暗金色の瞳の男は、何故か大声で笑い出したのだった。
何がそれほど可笑しかったのか、リュミエールには見当も付かなかったし、幾ら尋ねても、教えてもらえなかったのだが。