水の章3−5
5.
夢の守護聖が交代するという発表があったのは、それから間もなくの事だった。
同時に、後任の者の名前や年齢も、守護聖たちには公表された。
ただ、後任者本人だけが、いつまで経っても、姿を現さなかった。
「……とんだ甘ったれ野郎だぜ!」
交代の発表から何度目かの集いが終わり、守護聖たちがそれぞれの執務室に戻ろうとしている中、リュミエールの耳に、低い呟きが聞こえてきた。
顔を上げてみると、少し前を歩いていたオスカーが、自身の言葉にはっとしたように、周りを見回している。
「お行儀の悪い独り言を、聞き咎められやしなかったかと、心配してるのか?」
背後から追いついてきた緑の守護聖が、からかうように声を掛けてきた。
「安心しろ、ジュリアスなら、ディアと話があるとかで、まだ集いの間に残ってるぞ……だが、何をそんなに怒ってるんだ?」
振り返った赤毛の青年は、思わずほっとした表情を漏らしたが、すぐに再び、苛立ったように言い出した。
「オリヴィエとかいう奴の事ですよ。子どもじゃあるまいし、守護聖になるのが嫌で逃げ回ってるなんて、どうしようもない軟弱者じゃありませんか」
「そうかな?俺は、なかなか骨のある男だと思うが」
炎の守護聖は、むっとしたように聞き返す。
「からかっているんですか、カティス様?」
「まあ、ちょっと考えて見ろよ。陛下の使者から逃げた上、聖地の捜索網から隠れ続けるなんて、相当な度胸と根性があって、しかも頭の切れる奴じゃなきゃ、不可能だろう?」
「それは……しかし……」
困惑した表情の後輩に、緑の守護聖は、真顔で付け加える。
「これが避けられない宿命だって事くらい、そいつにだって分かっているはずだ。その上で − 全てを諦めた上で、今はただ自分を納得させるために、走り続けているんじゃないかと、俺は思うよ」
「カティス様……」
自身の就任前後を思い出したのか、少し遠い目になった赤毛の守護聖の肩をぽんと叩くと、カティスは、いつもの陽気な調子に戻って言った。
「まあ、自分から出て来るにしろ、見つけだされるにしろ、宇宙に影響が出るほど遅くはならないだろう。どういう奴か判断を下すのは、本人に会ってからでも、遅くはないんじゃないか」
自分の前を、同じくらいの速さで歩いていく二人の会話を、聞くとも無しに聞きながら、リュミエールは水の執務室に向かった。
大きな扉を開け、改めて室内を見渡してみる。
(……宿命……)
水色を基調とし、爽やかで落ち着いた雰囲気のこの部屋は、仕事の場ゆえの緊張感はあるものの、すでに自分の一部と言えるほどに慣れ親しんだ感じがする。
それでも、ここに来る前の事を忘れたわけではない。
平穏で満ち足りた少年時代、使者が訪れた時の動揺、それに、慌ただしくも思い深い、旅立ちまでの日々。
全てを共にした家族も、知人も、もう誰も残ってはいないだろう……けれど……
(でも……みんな、ここにいる)
若者は、執務机の奥から、白い貝殻を取り出した。
耳に当て、青銀の睫毛を閉じれば、故郷の海の音が、光や風、香りまで伴って、活き活きと蘇ってくる。
こうして、自分の中の海に、いつも彼らは住んでいる。
沢山の思い出と共に。
しばらくして、耳を貝殻から離すと、リュミエールは、次期夢の守護聖に思いを馳せた。
そのオリヴィエという人は、もう二十歳になっているという。きっと、通常よりやや就任年齢が高い分だけ、思い出も、断ちがたい繋がりも、多く持っている事だろう。
だから、自分の宿命を認めながら、納得できないでいるというのも、理解できるような気がする。
(けれど……)
貝殻を机に置きながら、水の守護聖は、憂いを帯びた静かな表情になっていた。
(その方もいずれ……いえ、もしかしたら、もう分かり始めているのかも知れませんね。他ならぬその繋がり、思い出こそが、自分を支えてもくれるのだと)
そこまで考えた時、若者は不意に、闇の守護聖の暗い瞳を思い出した。
「ああ……それでは……」
青銀の優しい眉が陰に沈み、水色の執務服に包まれた体が、力無く椅子に崩れ落ちていく。
たとえ記憶の強さや価値が、量で決められるものではないとしても……
物心付いて間もなく守護聖となった人は、通常の年齢で就任した者と比べ、外界で暮らしていた頃の思い出が、ずっと少なかった事になるではないか。
生まれながらに守護聖として育てられた、ジュリアスのような人であっても、就任に伴う様々な変化を乗り切るには、相当の精神力を必要としただろう。
ましてクラヴィスは − そのような特別な育てられ方はしなかったと聞いている、あの方は − 何の心構え・知識もなく、自分を納得させる術など持とう筈もないままに、告知から旅立ち、そして新しい生活まで、全てが始まり、終わってしまったのだ。
その上、支えとなる思い出さえも、殆ど残っていなかったとしたら……
「何と……痛々しい……」
いつか見開かれていた海色の双眸が、苦しげに歪んだまま、伏せられていく。
その時にお側にいられたなら、何もできなくとも、せめて見守って差し上げられたならと、叶うはずもない願いが胸から溢れ、心を締め付けていく。
やがて、ゆっくりと頭を振ると、リュミエールは顔を上げた。
先日、改めて自覚したばかりの望みを、心で繰り返してみる。
(クラヴィス様の、安らぎと……幸福)
未来においてそうなるよう願う事さえ、身に過ぎていると分かっているものを、過去まで思い煩い、徒に時間を使うなど、思い上がりもいい所ではないか。
どうにもならない事を思い悩む時間があるのなら、あの方のために使った方がいい。
少なくとも、今は側にいられる。何もできなくても、見守る事ができるのだから。
そろそろ、闇の守護聖が休憩をとりそうな時刻になっているのに気づくと、若者は、紅茶でも差し入れようと立ち上がった。