水の章3−7


7.


 その二日後、夢の守護聖の就任式が執り行われた。

 水と炎の守護聖にとっては、初めて目の当たりにする同僚の交代だったが、幸か不幸か、その日程の慌ただしさのために、さほど感慨や感傷を覚える事はなかった。

 むしろ、もう自分たちが新人ではないという責任感と、この個性的な後輩と上手くやっていけるかという、漠然とした不安の方が先に立っていた。






 式の翌朝、いつものように宮殿に出仕したリュミエールは、少し先の回廊で、地の守護聖が空を見上げているのに気づいた。

「おはようございます」

挨拶の言葉を掛けると、ルヴァは飛び上がりそうなほど驚いた様子で、こちらを振り向いた。

「ああ、リュミエール、おはようございます」

「ルヴァ様、どうかなさったのですか」

つい最近、同じような事があったと思いながら、青銀の髪の若者は問いかける。

「え、いえ、その……」

知を司る守護聖は、しばらく口ごもった後、ためらいながら話し出した。

「……先ほど、ディアとジュリアスに呼ばれましてね、しばらく私、あのオリヴィエという人の、教育係をする事になったんですよ」

「そうでしたか」

リュミエールは、納得した表情で頷いた。

 通常、守護聖になるべく聖地に呼ばれた者は、同サクリアの現役守護聖の元でしばらく過ごし、聖地に関する知識やサクリア制御の方法を教わる事になっている。だが今回はオリヴィエの到着が遅れ、その時間が取れなかったために、特例として、守護聖の中でも最も博識な地の守護聖が、替わりを務める事になったのだろう。

「お忙しくなりそうですね。私にお手伝いできる事がありましたら、何でもおっしゃって下さい」

「どうもありがとう、リュミエール」

ルヴァは礼を言うと、弱々しく微笑みながら呟いた。

「しかし、私なんかにできるんでしょうかね。人を教えるなんて……」

 何かと世話になっている相手の、思いがけなく自信のなさそうな言葉に、水の守護聖は少なからず驚いた。

「どうしてでしょうか。私には、ルヴァ様はとても適任に思えますが」

「それは……まあ、そう言っていただけるだけで、励みになりますよ」

感謝するように頷き、自室に去っていく地の守護聖の後姿を、青銀の髪の若者は不思議そうに見つめていた。




 その午後、闇の執務室に手伝いに来ていたリュミエールは、ふと今朝の事を思いだし、部屋の主に話しかけてみた。

「あの、お聞きになりましたか、クラヴィス様……ルヴァ様が、オリヴィエの教育係に任ぜられたそうです」

 机上の書類に落とされていた視線が、さっとこちらに向けられる。

「……ルヴァだと?」

「は、はい」

どのような話題にも、ほとんど関心を示した例のない闇の守護聖の、予想外の反応に、リュミエールは動転しながら答えた。

 だが、返事が耳に届いているのかさえ伺い知れぬ遠い眼差しで、クラヴィスは呻くように繰り返す。

「ルヴァが……」

寒さが空気の色を変えるように、その双眸がすうっと透き通っていくのを、リュミエールには暗がりの中で見て取った。

 この方は、また落ちていこうとしている。眼差しを凍らせる痛みの中に。癒しとなる時の流れさえ存在しない闇の中に。

「クラヴィス様……」

悲しみと無力感に満ちた呟きが、意識を一瞬だけ逸らしたのか、闇の守護聖は空虚な瞳をこちらに向けると、抑揚のない声で命じた。

「帰れ」

 何の感情も――不興や怒りさえ――含まれず、ただ一人になるための、最低限の手続きとして発せられた言葉に、リュミエールは黙って従うより術がなかった。




 自室に戻る気にもなれず、また、執務は粗方終えていたので、水の守護聖は、そのまま宮殿の前庭に足を運んだ。

 明るい陽射しの下、美しく整えられた木々が、それぞれの命を謳歌しているように輝いているのが見えてくる。

(なのに、あの方は……)

若者は、暗色のカーテンで覆われた窓を見上げると、溜息と共にその薄い肩を落とした。

 たとえクラヴィスの言葉に逆らい、部屋に留まったとしても、自分にあの状況を変える事などできないのを、彼は経験から知っていた。

 一旦凍り始めた意識は、どのような言葉も行動も、竪琴の音をもってしても、止められるものではない。そうしてまたあの方の心は、温かさも安らぎも感じない闇に浸食されてしまうのだ。

(ほんの少しずつでも、そこから引き離せるかと……せめて、闇の訪れる機会を減らす事だけでもできないものかと、希望を持つたびに……)

予想の付かない何かが、あの方の心を闇に引き戻してしまう。




 暗い物思いに耽っていた若者は、ふと、聞き慣れない音に意識を引き戻された。

 耳に従って振り向くと、中央階段の近く、灌木の植え込みの向こう側に、見覚えのある人物が屈み込んでいるのが見えた。

「よう、リュミエール」

こちらに気づいた緑の守護聖が、シャベルを手にしたまま立ち上がる。

「ちょうどこの辺りが、土質も日当たりも一番良さそうだよ」

「……はい?」

 優しい面立ちに、キツネにつままれたような表情を浮かべて聞き返す後輩に、カティスは笑顔で話を続けた。

「前から気になっていたんだが、この前庭は木ばかりで、草花が少ないだろう? だから一つ、ディアに頼んで花壇を造らせてもらおうと思ってな……お前なら、ここに何を植える?」

突然の質問に若者が戸惑っている間に、緑の守護聖は一人で考えと言葉を進めていく。

「ふうむ、しかしここからだと、一番近いのはあいつの部屋か。よし」

 庭道具を手早く片づけると、緑の守護聖は快活な足取りで歩き出した。

「……“あいつ”?」

首を傾げ繰り返した若者に、カティスは楽しそうに笑いかけた。

「散歩するくらい暇だったら、一緒に来るか?」


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