水の章3−8


8.

 カティスがノックする扉を見て、リュミエールはようやく“あいつ”が誰なのかを悟った。

 だが、侍従に通された執務室の中は、何となく落ち着かない雰囲気が漂っていた。

「あー、本当に、その、何というか……あなたは、覚えが早いですね、オリヴィエ」

「あんたの感想なんて、どうでもいいって言ったでしょ。さあ、ぼやぼやしてないで、次の課題に行くよ!」

奥の机から聞こえてくる、どちらが教育係なのか分からない会話に、水の守護聖が目を丸くしていると、カティスは二人の方に歩み寄って声を掛けた。

「勉強中のようだが、少し邪魔してもいいか?」

「邪魔だと思うんなら、帰れば」

明らかにこちらの存在に気づいていながら、新任の夢の守護聖は、顔を向けようともしない。

 その代わりに、机の傍らに立っていたルヴァが、こちらを見て声を上げた。

「おや、カティスじゃありませんか。それに、リュミエールも」

「頑張ってるようだな、ルヴァ」

「いえ、私など何もしていませんよ。とにかく、この人の呑み込みがいいものですから……」

地の守護聖が遠慮がちに微笑むと、誉め言葉を逸らせるような軽い口調で、オリヴィエが言葉を挟む。

「だ・か・ら、こういう鬱陶しい事を、ちょっとでも早く終わらせたいと思う一心で、軽く本気出してるだけなんだってば……で、カティスとリュミエールだっけ、私に何か用?」

 まだ眼に慣れない煌びやかな執務服――本人の希望が強く反映された前代未聞のデザインで、過酷なスケジュールを経て辛うじて就任式に間に合ったという――をまとった青年が、衣装に少しも引けを取らない美貌に、相手を量るような笑みを浮かべて聞いてきた。

「ああ。ちょっと、窓の外を見て欲しいんだ……ほら、あの中央階段の近くに、土を掘り返した所があるだろう? あそこに花壇を造ろうと思うんだが、オリヴィエ、お前の好みも聞いておこうと思ってな」

「花壇だって?」

気楽そうな口調で答えたカティスに、夢の守護聖は呆れたように聞き返した。

「まさか、あんたが自分でシャベル持って造るわけ? 緑の守護聖様が?」

「そうだよ」

 オリヴィエは一瞬気を呑まれたように表情を失ったが、すぐに興味深そうな眼差しを取り戻した。

「ふうん。やりようによっては結構融通の利くものなんだね、守護聖って」

「オ、オリヴィエ……」

狼狽した地の守護聖の呼びかけを無視して、美しさを司る青年は、カティスに微笑み掛けた。

「花はどんなのでも好きだけどね、リクエストするんだったら……うん、ランかバラがいいな。この部屋、紫からピンクのグラデーションで華麗にまとめるつもりだから、その辺意識しといてくれる?」

「よし、できるだけご希望に添うように頑張ってみよう。じゃ、勉強を続けてくれ」

用事が済むと、緑の守護聖はさっさと扉に向かいだした。

「あの……お邪魔しました」

自分は何をしに来たんだろうと思いながら、リュミエールも退出の挨拶をする。

「ええ、いえ、お構いもしませんで」

余所の部屋だというのに申し訳なさそうに答えるルヴァの隣から、夢の守護聖は、愛想の良さと掴み所なさの入り交じった眼差しで微笑みかけた。

「じゃね。カティスと……優しさ“とやら”の守護聖様!」






 背後で扉が閉ざされると、リュミエールは、思わず大きな息を付いた。

「無理に付き合わせて悪かったな。気疲れしたか?」

「いえ……」

否定する声に、隠しきれない疲労が滲み出ているのが、自分でも感じられる。

 カティスは軽くその肩を叩くと、労るようにゆっくりと廊下を歩きだした。

「しかし、あのオリヴィエって奴、わがまま放題の振りをして、ルヴァや俺たちに迷惑が掛からないように、かなり気を配っていたな。来たばかりだっていうのに、まったく大したものだ」

 傍らを歩く水の守護聖は、思わず先輩の方を向いて立ち止まった。

「カティス様、それでは……」

「おいおい、そんなに見つめるなよ。俺はただ、花壇が造りたかっただけなんだから」

緑の守護聖が悪戯っぽく笑った時、二人はちょうど中央の大階段に着いた。

「じゃ、さっそくディアの所に行く事にするよ。オリヴィエのリクエストも受けたし、話は早く進めた方がいいだろうからな」

「はい。色々とありがとうございました」

リュミエールは礼を言うと、先刻よりずっと明るい表情で階段を上りだした。

 今の訪問はきっと、オリヴィエやルヴァの様子を見に行くためだったのだろう。それに、もしかしたら自分を同行させたのは、同世代の後輩とうち解けるきっかけが得られるようにという気配りからの事だったのかもしれない。

(早く独り立ちできるように頑張っている人、それを助けようと懸命な人、更にそれを支えるべく見守る人……)

 誰もが時の流れの中で、時に負けないよう動いていると思えば、自分も落ち込んでなどいられなくなる。今できるのは、できるだけ先の分まで、執務を片づけておく事。そうして、あの方を補佐する時間が少しでも長く取れるようにしておく事。

(そして、執務時間が終わったら……)

 あの昏い表情を見るのを恐れず、もう一度闇の執務室に行ってみよう。そう考えながら、青銀の髪の若者は、自室に戻っていった。


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