水の章・4−11

11.


 クラヴィスから半歩遅れて廊下を進みながら、水の守護聖は、この人がどうして少年たちの横で足を止めたのだろうと考えていた。女王候補たちと仲良くなりたいなど、ごくたわいない話をしていただけだったのに。

(仲良く……女王候補と……)

リュミエールは、はっとして闇の守護聖の面を見上げた。

 どうして気づかなかったのだろう、かつて女王候補だった少女に個人的な感情を寄せていたのが、それによって大きな傷を負ったのが、誰であったのかという事に。それではこの人は、少年たちの言葉に過去を思い出し、苦しみを新たにしていたのだろうか。

 だが、クラヴィスの臈たけた横顔からは、どのような感情も読み取れない。心なしか普段より速い足取りで、ただ歩き続けているだけだ。




 思い乱れながらついていくうち、いつかリュミエールは闇の執務室の前に着いていた。部屋付きの侍従が扉を開け、黒衣の守護聖が無言でその中に入っていく。

「クラヴィス様、何かお手伝いできる事はありませんか」

慌てて呼びかけながら、リュミエールは後を追った。水の守護聖がこの部屋にいるのはごく普通の事になっているので、侍従たちも留め立てはしなかった。

 しかし何度呼びかけを繰り返しても、闇の守護聖は振り返りもしなければ答えようともしない。自分以外の誰かが部屋にいるのにも気づかない様子でカウチに腰を下ろすと、その前に置かれたテーブルで、タロットカードを繰り始めてしまった。

 テーブルの手前で立ち止まったリュミエールは、部屋の主を見つめながら困惑していた。もし聖地ですませるべき用事があるのなら、公私を問わず手伝おうと思ってついてきたのだが、こうして占いを始めたところを見ると、特にしなければならない事はないのかもしれない。

 だが、今目の前で始まった占いは、いつもの手すさびのためのそれと、どこか違って見えた。はっきり表情に現れているわけではないが、姿勢や動きの一つ一つに、熱のこもった、もっと言えば切迫したような雰囲気を感じるのだ。




 声も出さず、動く事さえ躊躇われたまま、リュミエールは闇の守護聖を見守り続けた。クラヴィスは普段の幾倍もの時間をかけ、様々な方法で占いを繰り返していたが、やがて疲れたようにカードを置くと、背もたれにぐったりと躯を預けた。

 咎められるのを覚悟して、水の守護聖は声をかけた。

「クラヴィス様、お許しもなくお部屋に入って申し訳ありません。ずいぶんお疲れのようですが、宜しければ、お茶でもお入れいたしましょうか」

 黙ってこちらを向いた白い面には、疲れと微かな驚き、そしてそれらを遥かに凌ぐ、異様なまでに暗鬱な表情が現れていた。

 リュミエールは、思わずカウチの傍らに駆け寄った。

「大丈夫ですか、ご気分でも……」

ひざまずいて見あげると、薄い唇が微かに動き、呟くような声が漏れてきた。

「……ならぬ」

勝手に部屋に入った事を怒っているのかと、リュミエールは一瞬身構えた。しかし、それにしては声に怒気が感じられない。間近から見つめてくる眼差しも、厳しくはあったが、咎めているようには見えなかった。

 ゆっくりと背もたれから身を起こすと、闇の守護聖はその長い腕を相手の方に差し伸べてきた。青銀の髪の流れる側頭部に掌で触れ、輪郭をなぞるように少しだけ下にずらす。

「ならぬ、決して許さぬ……そのような事」

まるで祈りのように遠い、そして強い思いのこもった声。

 ただならぬ様子に不安を覚え、また思いがけない接触に動揺して、水の守護聖の動悸は苦しいほど高まっていた。

「そのような……事……?」

うわ言のように繰り返す言葉にクラヴィスは答えず、ただ相手の頭に触れたまま、その面をじっと見つめ続けた。

 そうして、どれほどの時が経ったのだろう。ひざまずいたリュミエールの足が痺れ始めた頃、ようやく闇の守護聖は手を離し、静かに言った。

「竪琴を奏でてくれ。この宇宙にいる間に、もう一度」




 聖地の闇の執務室で演奏するのは久しぶりだった。明日から基本的には飛空都市で過ごす事になるのだから、次の機会は、恐らく試験が終わるまで巡ってこないだろう。

 星の美しさを謳った曲を奏でながら、水の守護聖は、カウチで休む黒衣長身の姿を見やった。いくらか回復したとはいえ、積年の痛みに弱り果てた躯で、集中を要する占いを長時間続けたのだ、よほど疲れている事だろう。

 影の差した端正な面に、先刻の暗鬱な表情を重ねてみる。

 あのような表情を見たのも初めてならば、先刻のような触れ方をされたのも、また初めての事だった。女王試験が始まった事と、何か関係があるのだろうか。

 そういえば以前、オリヴィエが言っていた。今回の女王試験には、これまでとは違う特別な事があるようだと。女王候補たちだけではなく、もしかしたら守護聖一人ひとりにとっても、この試験は特別なものとなるのだろうか。宇宙だけではなく、個人の運命さえ変えてしまうような何かが、この試験にはあるのだろうか。

 明日からの日々に漠然とした不安を覚えながら、そして髪に残る掌の感触が、蘇るたびなぜか胸を苦しくするのを感じながら、水の守護聖は竪琴を奏で続けていた。



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