水の章・4−15

15.

 クラヴィスが出て行ってから、まだいくらもたっていないはずなのに、姿が見あたらない。通りかかった職員に尋ねてみたが、あいにく誰も見かけていないようだった。

 困惑して周囲を見回すうちに、リュミエールは自分の立っている廊下が、いくつもの扉や階段に続いているのに気づいた。このような造りの中を探すには、一つずつ順に見に行くしかないだろうが、その間に相手が別の廊下にでも移動してしまったら、追いつくどころか完全に見失ってしまいかねない。ようやく馴染み始めたばかりの聖殿が、まるで迷宮のように感じられる。闇の守護聖に会わせまいと、助けさせまいと、間に立って邪魔しているように思われてくる。

 途方にくれる心の奥から、低い響きが蘇ってきた。

『……自信がないなど大した事ではない、と言っているのだ』

感情の読み取れない声で呟くように言っていた、端正な白皙の横顔。この言葉の何が引き起こしたのかはわからないが、そこには確かに苦痛の表情が現れていた。

 近頃にもなくはっきりと首座の守護聖に逆らって、しかも、まだ本人の答える番にはなっていなかったのに、なぜあのような事を口にしたのだろう。まるで非難の矛先を、クラヴィス自身の方に逸らそうとでもするかのように。そうしてこの自分を、助けようとでもするかのように。

(私の……ため?)

そのような事があるだろうかと思いながらも、リュミエールは心が明るんでいくのを感じた。もしそうだとしたら、どれほどありがたい事だろう。そして、嬉しい事だろう。

 だがその気持ちも、すぐ後から湧いてきた心配と自責の念に覆い尽くされてしまった。本当にそうであったのなら、闇の守護聖は、この自分のために苦しんでいる事になる。守護聖として不適格であろう事を告白した以上、自分が非難を受けるのは覚悟していたが、まさかそこにクラヴィスまで巻き込み、痛みを与えてしまおうとは。

 激しい後悔に苛まれて、水の守護聖は視線を脇に伏せた。すると視界の端で、何かが動いているのが感じられた。反射的に眼を向けると、窓の下に見える広い道を、一台の馬車が遠ざかっていくのが見えた。階上にある廊下からはかなり離れていたが、その形も大きさも色も、リュミエールにとっては充分すぎるほど見覚えのあるものだった。




 水の守護聖は急いで車寄せに向かい、係員にクラヴィスが馬車を出したかどうかを確かめた。

「はい、先ほど聖殿から退出していかれました。クラヴィス様のお声は聞こえませんでしたが、御者がご指示を復唱して、“次元回廊でございますね”と言っていたのが聞こえました」

(次元回廊……聖地に向かわれたのですか)

 リュミエールはすぐに自分の馬車を出させると、その後を追った。




 王立研究院の地下にある次元回廊に、水の守護聖は進み入った。女王と補佐官、そして守護聖たちはここを自由に行き来できる事になっているので、研究員たちも何も言わずに見守っているだけである。

 時空を特殊な方法で行き来するためだろう、女王の業になるこの宇宙間通路を用いる者は、一瞬だけだが精神と肉体が分離するような、奇妙な感覚を味わわなければならない。リュミエールもその感覚を経て聖地に戻ると、さっそくこちらの職員から、闇の守護聖がここを通った事、そして馬車で──今度は御者の声も聞き取れなかったが、進んでいった方角から判断して──森の湖に向かったらしい事を聞き出した。

 聖地の水ならば飛空都市にも流れているが、あえてこちらの湖に向かったという事は、それだけ強い癒しが必要とされているという事だろう。心配に胸塞がれながら、水の守護聖も馬車をあつらえて湖に向かった。手前の森の入り口で徒歩になり、目的地までの細道を急ぎ足で進んでいく。

 ようやく着いた湖畔に、しかし、探していた姿はなかった。張り詰めていた心が崩れそうになるのを抑えながら、リュミエールは懸命に考えた。こちらの方面で、他に闇の守護聖が赴きそうな場所があっただろうか。癒しを求めて来たのだから、とにかく水に近づこうとしているはずだ。ここから見える滝にもいないとすると、あとは──




 湖から流れ出している川のほとりに、小さく開けた場所があったのを、水の守護聖は思いだした。聖地に着たばかりの頃、人のいない場所を求めて見つけたこの静かな岸辺で、リュミエールはたびたび闇の守護聖と出くわしたのだった。

(もしかしたら、あそこに……)

リュミエールは、記憶を頼りに歩き出した。

 あの頃は緊張と気疲れがひどく、他人に会いたくないと思ってしまう事も少なくなかった。だがなぜか、クラヴィスにだけは会えるのが嬉しかった。この場所が好きだったのは、そのせいもあったのかもしれない。毎日のように闇の守護聖の補佐をするようになると、いつの間にか、岸辺を訪れる事もなくなっていったのだから。

 回想しながら進んでいったリュミエールは、ようやく見覚えのある林に着いた。木々の間をぬうように小道を歩き続けると、遠くに懐かしい岸辺と、そして暗色の衣に包まれた姿が見えてくる。

 安堵の息と共に足を速めようとしたその時、周囲で無数の音と振動が巻き起こった。林中の木という木から、小鳥が一斉に飛び立っていったのだ。

「あっ!」

思わず声を上げた水の守護聖を、黒衣の姿が振り返る。

「……リュミエール?」

 次の瞬間、足下の地面がぐらりと傾いた。


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