水の章・4−16

16.

 青年はとっさに近くの立ち木につかまると、身を竦ませてクラヴィスを見つめた。一方闇の守護聖は、わずかに眉を顰めたものの、特に動揺もなくこちらを見返している。

 相手の表情に少しずつ落ち着きを取り戻していったリュミエールは、ほどなく揺れが収まっているのに気づくと、木から手を離した。まだ先刻の感覚が残っているらしく、足がうまく動かないが、それを懸命に御しながら岸辺へと歩き始める。もしまた地面が揺れるような事があっても守れるように、少しでも早くクラヴィスの側に行き着きたかったのだ。

「クラヴィス様……」

目の前に来たリュミエールの呼びかけに答える代わりに、闇の守護聖は平板な声で問いかけてきた。

「なぜ、ここにいる」

水の守護聖は少し躊躇ったが、他の言い方も思いつかなかったので、ありのままを答えた。

「申し訳ありません、クラヴィス様のご様子が心配で、追ってきてしまいました」

 取りようによっては失礼に当たるかもしれない返事だったが、幸いクラヴィスは気を悪くした様子もなく、ただ呆れたように溜息をついただけだった。

 リュミエールは安堵すると、今度は自分の方から問いかけた。

「大丈夫でしたか、今の……」

言いかけて、ふと口ごもる。あまりに相手が平然としているので、この揺れが錯覚だったのだろうかと思い始めたのだ。頭上の青空も、周囲の緑の木々も清らかな流れも、先刻までと少しも変わってはいない。もしかしたら、いつかのように目眩でも起こして、それを地面が揺れたと勘違いしていたのではないだろうか。

 だが、その迷いを終わらせたのは、ほかならぬ闇の守護聖だった。

「地震だな」

短く断じると、クラヴィスは無表情に続けた。

「見てのとおり、無事だ。お前も大事ないか」

「はい……」

答えながら、水の守護聖は改めて事の重大さに気づいた。

「聖地に地震など、前代未聞ではありませんか。どうしてそのような事が……」

黒衣の守護聖は僅かに視線をそらしたのみで、何も答えようとしない。

「クラヴィス様、すぐ宮殿に向かいましょう。陛下たちが心配です」

蒼ざめて言いつのるリュミエールに、しかし相手はゆっくりと頭を振った。

「無用だ。あの程度ならば、グラスの水もこぼれまい。もし歩いていれば、我々も気づかなかったかもしれぬ」

「ですが……」

大きさはともかく、地震があった事自体が異常ではないかとリュミエールは思った。女王の力が最も強く働くこの聖地に天変地異の類など起こりえず、またかつて起きた例もないという事は、守護聖ならば誰もが知っているはずではないか。

 にもかかわらず、まったく動揺を見せていないクラヴィスに、水の守護聖は言い知れぬ不安を感じた。何かが食い違っている。自分と相手との間に、何か決定的な違いがあるように思われる。だが、それを追究する方法も分からないし、今はそのような場合ではない。

「では、王立研究院に行きましょう。急いで原因を確かめて、対策をたてなければ」

「それも無用だ」

クラヴィスが、呟くように答える。

「なぜです!」

焦りに近いほど高まった不安に、水の守護聖は思わず声を高くした。

 闇の守護聖は白面を伏せると、自らの足下に視線を向けた。そこでは清らかな聖地の水が、川から分かれた小さな流れとなって、絶え間ないきらめきの踊りを見せている。

「宮殿も研究院も、そして占いの館も、すでにこのような事態を予測している。そのための観測も、聖地の各所で始まっているはずだ。さしあたって我らがなすべき事は、何もない」

低い声で伝えられた事実に、リュミエールは眼を見開いた。予測されていた事ならば、なぜ守護聖全員に伝えられなかったのだろう。そしてなぜ、闇の守護聖がそれを知っているのだろう。

 昨夜、研究院で見かけた男女の姿が思い浮かんできた。

『けれど、クラヴィス様が……』

『……私たちはただ、、聞かれた事だけを答えればよいのだ』

 クラヴィスだけではない。パスハが、サラが、そして女王や恐らくは補佐官までもが、何かを察知し、そして隠している。いや、それとも──リュミエールは、情報交換の再開をもちかけた時に聞いた話を思い出した──ルヴァも、あるいは年長の守護聖全員が関わっているのかもしれない。

 これまで抱いてきた不安や疑惑が一つに重なっていくのを感じて、水の守護聖は呆然とした。もしかしたら、何か途方もなく大きな事が起ころうとしているのではないだろうか。

 驚きと混乱に言葉も出ないリュミエールを、闇の守護聖はしばらく見つめていたが、会話が終わったと思いこんだのだろうか、やがてゆっくりと林に向かって歩き出した。

「あ、クラヴィス様……」

急いで後に続き、自分の通った林を先刻とは別の方角に進むと、馬車が停めてあるのが見えてくる。

 無言のまま向かいの席を指し示されたので、リュミエールは躊躇いながらも同乗し──自分の乗ってきた馬車には、後で連絡を入れればいいだろう──王立研究院に向かうと、そのままクラヴィスと共に次元回廊に入っていった。




 飛空都市側から次元回廊を出ると、二人の守護聖がこちらに向かってくるのが見えた。

「そなたたち……聖地に行っていたのか」

「クラヴィス、リュミエール、大丈夫でしたか。あちらで地震があったと聞いて、飛んできたんですが」

ジュリアスとルヴァが、驚きの表情で声をかけてくる。

「ご心配をおかけしてすみません、地震は……」

言いかけた水の守護聖を、珍しくクラヴィスが遮った。

「被害の出るようなものではなかったようだ。正確な情報は、研究院の報告を待つしかないだろうが」

冷たささえ感じるほど冷静な答えだったが、地の守護聖は大きく安堵の息をついた。

「大した事がなくて良かったですよ。この後も、これくらいですめばいいんですが」

「ルヴァ……?」

訝しげに聞き返した光の守護聖に、ルヴァは慌てたように頭を振る。

「いえ、何でもありません……さて、今日はもう執務もない事ですし、ここまで来たついでに、久しぶりに聖地の図書館にでも行ってきましょうか」

ひとりごとのように言いながら、地の守護聖は扉の奥に姿を消してしまう。

 それを見送ったジュリアスは、無言のまま闇の守護聖に一瞥をくれてから、ルヴァとは逆の方向に歩み去った。




 残されたリュミエールとクラヴィスは、次元回廊室外の通路に立ち尽くしていた。

 闇の守護聖は、ジュリアスと対峙した際の常として──何がそれほど苦痛なのか、リュミエールには未だにわからないのだが──壁にもたれたまま両眼を伏せ、苦しげに息をついている。

 その様子を痛ましげに見つめていた青年は、ふと違和感を覚えた。この方は以前、もっと頑なに光の守護聖の存在を拒み、意識だけでも逃れようとしていたはずだ。それがいつ頃からか全てを諦めてしまったように、ただその場で痛みに耐えるようになってしまっている。何か理由があっての事なのだろうか。そしてそれは、この方にとって良い変化なのだろうか。

(変化……)

聖地に来てからの、永遠に移ろわないように思われた時間を経て、今、何かが起ころうとしている。女王の交代だけではない何かが、宇宙の中で、地震を予期していた人たちの間で、そして闇の守護聖の裡で。

 今は誰に尋ねても答えを得られそうにはないが、これだけ動きが明らかになってきた以上、わかる時は遠からず訪れるだろう。あのような予兆を伴う以上、それが宇宙にとって、また闇の守護聖にとって、災厄となる事もじゅうぶん考えられるが──

(もしそうであったなら……この身を挺してでも、私がお守りいたします)

ようやく痛みが治まったのか、静かに歩き出そうとするクラヴィスの背を支えながら、水の守護聖は自分でも驚くほど強固な気持ちで、そう思ったのだった。


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