水の章・4−17
17.
「どうも、ありがとうございました!」
育成依頼を終えたアンジェリークは、弾むような足取りで水の執務室を出て行った。
微笑みながらそれを見送ると、リュミエールは研究院から届いた観測データに目を落とした。試験当初の大成長期こそ差が開いていたものの、最初の停滞期を迎えた今、エリューシオンとフェリシアの発展レベルにはほどんど違いが見られなくなってきている。どうやら事前知識の有無というものは、心配していたほど育成速度に影響を与えないものらしい。
何かとロザリアを意識しては落ち込む事の多かったアンジェリークも、ようやく自信が出てきたのか、彼女らしいのびのびした育成ができるようになってきた。両女王候補が力を存分に出せるようになったのは、試験のためにも、ひいては宇宙のためにも良い変化といえるだろう。
さらにリュミエールにとって嬉しい事には、二人の差が縮まったのを最も喜んでいるのが、どうやら──
執務室の扉にノックの音が響き、今度はロザリアが姿を現した。
「リュミエール様、育成のお願いにまいりました。フェリシアに少し水の力を送っていただけないでしょうか」
水の守護聖は、優しく微笑んだ。二人の女王候補がほぼ互角になったのを最も喜んでいるのが、他でもないこのロザリアなのだ。当人は“あの子が私のレベルまで上がってきて、ようやく手ごたえが出てきたというだけですわ”などと言っているが、その表情には、隠しようもない温かな喜びが現れている。
競うとか争うといった人を傷つけかねない行為を、リュミエールはどうしても肯定する気になれなかったが、少なくとも今回の女王試験は同じ喜びと苦しみを知る存在、言い換えれば誰よりも分かり合える相手という素晴らしいものを、少女たちにもたらしたようだ。人懐こいアンジェリークはもちろん、どこか孤高といった雰囲気を持っていたロザリアも、こうして仲間の大切さを知り、磨きあって成長していくのだろう。
「ええ、いいですよ。少し送るのですね」
穏やかに答えると、青い髪の少女が感謝の表情で一礼する。
その時、扉にまたもノックの音が響いた。
「おや、今日はお客様が多い日ですね。どなたでしょう」
従僕に合図して扉を開かせると、緑の守護聖が入ってきた。
「こんにちは、リュミエール様……あっ、ロザリアも来ていたんだね。ちょうどよかった」
マルセルは女王候補に声をかけてから、執務机の前までやってきた。
「あの、リュミエール様、突然ですが明日の午後、こっちの──飛空都市の僕の館にいらっしゃいませんか。そろそろ聖地の森でサクランボがおいしくなる季節なので、僕、今日のお仕事が終わったら取りに行って来るつもりなんです。それで明日パイを焼いて、お茶やお菓子の好きそうな方たちに食べていただきたいと思って」
リュミエールは、束の間考えた。この条件ではクラヴィスは呼ばれないかもしれないが、あらかじめ知らせておけば、闇の館に行くのが多少遅くなっても差し支えないだろう。思えば飛空都市に来てから、私的な茶会が開かれたという話をまったく聞かなくなってしまったが、週末の午後なら試験に支障も来たさないだろうし、むしろ今のような時こそ、こういう心潤う催しが大切なのではないだろうか。
「それは素敵ですね。ぜひお邪魔させてください」
微笑んで答えると、少年は嬉しそうに手を打ち合わせた。
「良かった! それじゃ明日、お待ちしていますね」
それから緑の守護聖は女王候補に向き直り、彼らしい率直な言い方で話しかけた。
「君とアンジェリークにも来てほしいんだ。ねえ、みんなでおしゃべりしながら食べようよ!」
「まあ、ありがとうございます。ええ、ぜひ伺わせていただきますわ。さっそくあの子にも伝えておきますから」
ロザリアは少し驚いたようだったが、すぐに嬉しそうに答えると、ドレスを軽くつまんで一礼した。
「うん、待ってるからね。それじゃリュミエール様、失礼します」
他の者を誘いにいくのだろう、マルセルはぴょこんと頭を下げると、忙しそうに部屋を出て行く。束ねられたまっすぐな金髪が、まだ細いその背の上で楽しげに飛び跳ねていた。
翌日の午後、リュミエールは飛空都市に設けられた緑の館を訪れた。
広い居間に通されると、そこから繋がったテラスにランディとゼフェルが来ているのが見えた。どうやら鋼の守護聖は、甘いものが嫌いだと言ったのを無視して誘われたと愚痴っているようだったが、言葉と裏腹にその表情は満更でもなさそうだった。
挨拶を交わしているところに女王候補たちが、次いで地の守護聖が到着し、最後に居間の奥の扉からマルセルが姿を現した。
「えーと、今日は来て下さってありがとうございました。さっそく一つめのパイが焼けたので、今から持ってきますね」
緑の守護聖は笑顔で言ったが、その声にはいつもの快活さが感じられなかった。
(マルセル……?)
不審に思ったリュミエールが見守っている間に、少年はいったんキッチンに戻り、パイを運んできた。
誰よりも速く駆け寄ったランディが、それを見て声を上げる。
「あれっ、チョコレートパイじゃないか。マルセル、今日はチェリーパイを焼くって言ってなかったかい?」
驚いた一同が近づくと、確かにそれは、おいしそうなチョコレートパイだった。
「うん。実はね……昨日、森に行ってみたら、サクランボがほとんど実をつけていなかったんだ。館の使用人の話では、今年は聖地中どこでもそうなんだって」
そこまで言うと、マルセルは申し訳なさそうな顔で他の者たちに向き直った。
「だから今日は、チョコやカスタードのパイを焼くつもりです。予定と違ってしまってごめんなさい」
「気にすんなって」
真っ先に声をかけたのは、鋼の守護聖だった。
「同じ甘ったるいなら、砂糖ぶちこんだチェリーより、まだチョコの方がましかもしれねーしな」
やや小声で続けた言葉に、風の守護聖が言葉を挟む。
「それって、お前だけの都合だろう。でもマルセル、気にしなくていいっていう気持ちは、みんな同じだからな」
ランディが励ますと、その場にいる一同も大きく頷いてみせる。
「ありがとうございます! じゃ、ちょうどいいくらいに冷めてきたから、切り分けますね」
元気を取り戻したマルセルが、いそいそと準備に取り掛かる。どうやら今日は給仕を呼ばずに、自らの手でふるまうつもりらしい。かつてカティスがよくこのような会を催していたのを思い出し、リュミエールは懐かしい気持ちでその年若い後継者を見つめた。
一方、年少の守護聖たちや女王候補はテーブルの周りに集まって、勝手に手伝いや口出しを始めていた。リュミエールは一歩下がったところから、うまくいくだろうかと思いながら見ていたが、案の定些細な行き違いが重なって、テーブルの周囲はたちまち小さな喧騒の場と化してしまった。
微笑ましい気持ちでその光景を眺めながら、水の守護聖は、同じく下がったところに立っているルヴァを振り向いた。
「みんな楽しそうですね、ルヴァさ……」
何気なくかけようとした声が、途中で止まる。地の守護聖の柔和な顔が、憂いとも悩みともつかぬ複雑な影に覆われているのに気づいたのだ。
「……ルヴァ様?」
思わず声をかけると、地の守護聖は物思いから覚めたように表情を戻した。
「あ、ええ、おいしそうなパイですね。マルセルは本当にお菓子作りが上手ですからねー」
いつもの温かい微笑を見て、水の守護聖も安堵の笑みを返す。だがその心には先刻の表情が、忘れがたく刻まれていた。
何種類もの手作りパイと飲み物を楽しんだ後、一同は思い思いに雑談に興じ始めた。そのうちに年少の守護聖が庭で追いかけあいを始めると、女王候補たちも応援の声を上げながら外に出て行き、館の庭は休日の公園のように賑やかな空間となっていた。
リュミエールとルヴァは居間に残り、その様子を楽しく眺めていたが、しばらくすると追いかけあいから一時離脱したマルセルが、飲み物のおかわりを聞きに来た。
「ありがとう、私はまだありますから……ルヴァ様はいかがですか」
水の守護聖の言葉を受けて、地の守護聖も自分のカップを見ながら言った。
「ええ、こちらもまだいいですよ。それよりマルセル」
隣に座るよう手振りでうながすと、ルヴァは何気ない様子で言葉を継いだ。
「ちょっと教えてほしいんですが──聖地の森で、何か他に変わった事はありませんでしたか」
「サクランボがなかった以外に、ですか」
どうしてそんな事をという顔で、緑の守護聖が小首をかしげる。
「他には何も気がつきませんでした。それより館の方が……あ、いいえ」
幼さの残る顔をしかめて考えていたマルセルは、何か言いかけて思い直したようだった。
だがルヴァは、真剣な声でそれを問いただしてくる。
「館が、どうかしたんですか」
「何でもありません、僕の勘違いだったんです」
「それでも構いません、教えてください。お願いしますよ」
言いたくなさそうな少年に、珍しくも地の守護聖が食い下がるのを見て、リュミエールは驚いた。最前見せた表情といい、今日はいったいどうしてしまったのだろう。
マルセルはまだ迷っているようだったが、ついに断りきれなくなったらしく、しぶしぶ答え始めた。
「昨日、久しぶりに聖地の館に帰ったら、何だか家の中が機械だらけになっているように思えたんです。でも、誰も新しい機械なんて入れてないって言うし、確かに温度調節機も、台所やお掃除なんかの機械も、一つ一つ見たらみんな前からあったのばかりだったので、すぐに気のせいだって分かりました。それだけです」
「機械……ですか」
ルヴァが低い声で繰り返した時、庭から年少の守護聖たちの呼ぶ声が聞こえた。
「あ、行かなくちゃ。お二人も、よかったら外に出られませんか」
ほっとしたように立ち上がりながら、マルセルが声をかけてくる。
リュミエールは地の守護聖に眼を向けたが、すでに何事か考え込んでしまっているようだった。
「いえ、私たちはここで庭の眺めを楽しませていただきますから、あなたは行っていらっしゃい」
「はいっ」
元気よく答えると、緑の守護聖は明るい戸外に走り出していく。
一方、室内ではルヴァが、その姿も眼に入らない様子でうつむいていた。
「もう、その段階に……注意しなければ……」
無意識に漏れたような呟きに、リュミエールは思わず相手の顔をのぞき見た。
そこにはあの複雑な影が、先刻よりも濃く、そして厳しいほどの深さを伴って蘇っていた。
緑の守護聖による、小規模ながら心温まる集いは、日の暮れる少し前に閉会となった。水の守護聖はいったん私邸に戻ってから、竪琴を携えて闇の館に向かった。
飛空都市における守護聖たちの私邸は、みな聖地のそれに似せて造られているので、闇の館も当然のように、鬱蒼とした木々に囲まれて建っている。暗色の内装に覆われた重厚な居間に通されると、館の主が卓上のタロットカードを束に戻すところだった。
「クラヴィス様、遅くなりました」
「……わかっている」
いつもの低く聞きとりがたい声が、耳に心地よく響く。
「夕食の時間までまだ少しあるようですが、竪琴をお聞かせしましょうか」
相手が微かに頷いたのを見て取ると、リュミエールは楽器を取り出した。
安楽椅子に身を沈めた黒衣の守護聖を眺めながら、この時刻に相応しいゆったりした曲を奏で始める。こうしていると、心が穏やかな喜びに満たされていくのが感じられる。試験も女王の交代も、それにまつわる疑問や不安も忘れて、誰もが平穏な幸福の日々を生きているように思われてくる。
(そう、今日のお茶会のように、楽しく思いやりに満ちた……)
心地よく回想していたリュミエールは、しかし突然、ルヴァの複雑な表情を思い出した。マルセルの言葉にこだわり、暗い呟きを漏らした地の守護聖。親しいと思っていたあの人もまた、自分の知らない何かのために悩み憂いているのだろうか。パスハやサラ、女王や補佐官、そしてジュリアスや──クラヴィスと同じように。
平穏が儚い幻に過ぎない事を、そして自分がそれに気づいている事を、リュミエールは認めなければならなかった。いくら眼を逸らそうとしても、周囲の人たちの態度からは不穏なものを感じ取らずにいられない。ここでこうしている今も、どこかで重要な事が起きているのだろうか。自分には知らされないまま、誰かが悩み苦しんで……
「どうした」
突然声をかけられて、リュミエールは我に返った。演奏に集中していたはずなのに、いつの間に物思いに入り込んでしまったのだろうか。
「……申し訳ありません」
「どうしたと聞いているのだ」
この人が物事を隠しおおせられる相手でないのは、よく知っている。水の守護聖は観念して竪琴を床に下ろすと、今日の出来事をクラヴィスに告げた。
「“段階”……と言ったのか、ルヴァは?」
闇の守護聖は、怪訝そうな表情で問うてきた。
「はい。独り言のように、そうおっしゃいました」
返事を聞いて考え込むクラヴィスを、水の守護聖は黙って見つめた。端正な眉が苦痛とは異なった形に顰められ、遠くも鋭い眼差しが、何かを見定めようとするかのように虚空に向けられている。
永きに渡る苦しみはもちろん、現在起きつつある問題さえも、闇の守護聖は教えようとしない。これほど近くにいるというのに、その懸念を分かちあう事も助ける事もできないのが、リュミエールには悲しく不甲斐なかった。
(けれど……)
少なくとも今この人を悩ませているのは──パスハたちやルヴァだけでなく、マルセルまでも巻き込まれているのを考えれば──個人的な事情ではなく、宇宙全体に関わる事だと思われる。ならば一人の守護聖としてそれを知りたいと、信頼して教えてほしいと願ってもいいのではないだろうか。
水の守護聖は、思い切って尋ねてみた。
「クラヴィス様は、ルヴァ様のお言葉を、どういう意味だとお考えですか」
驚いたのだろうか、僅かに眼を見開いた闇の守護聖が、しばらくこちらを眺めてから唇を開く。
「わからぬ。今はな」
一つ息をついてから、クラヴィスはゆっくり立ち上がった。大きな窓に歩み寄ると、そのカーテンを僅かに開き、すっかり暮れてしまった飛空都市の星空を眺める。
「だがいずれ、知る事になるだろう。お前も私も……我々の誰もが、否応なく」
闇の守護聖は、暗鬱な表情で答えた。
突き放すような言葉でありながら、その声には冷たさよりも、むしろ優しさゆえの苦悩がこもっているように、リュミエールには感じられた。