水の章・4−18

18.

 それから十日ほど後、リュミエールは執務が終わってから、飛空都市にある夢の館を訪ねた。オスカーやオリヴィエとの情報交換はほぼ隔週で続けられていたが、聖殿や戸外で人目を避けて集まるのが思ったより難しく、かといって三人が揃って聖地に戻るのも不自然なため、夢の守護聖自らが私邸で行うよう提案したのだ。

 意匠の凝らされた美しい館を家僕に案内されるまま進んでいくと、居間でくつろいでいる先客の姿が目に入ってきた。

「すみません、お待たせしてしまいましたか」

「ううん、時間ぴったりだよ。あいつは勝手に早く来て、勝手に人のボトルを開けようとしてただけだから」

壁の酒棚に手を伸ばしかけているオスカーを一睨みすると、夢の守護聖は機嫌よく話しかけてきた。

「今、うちのコにお茶出すように言っといたから、そこのソファにでも座ってちょうだい。こんな大事な話をしようって時に他所の酒を狙うなんて、マトモな奴のする事じゃないものね」

 再度の皮肉を聞いてようやく諦めたのか、炎の守護聖も他の二人のところにやってきた。

「まあ今日のところは、お前らに付き合ってやるさ──それで、あれから変わった動きはあったか?」

急に真剣な口調に変わったオスカーを、水の守護聖は驚いて見つめた。一方、館の主は優雅なしぐさで、しかし双眸を鋭い形に細めながら、続きを促した。

「そう言うからには、あんたの方で何かあったんだね?」

「何か、というほどはっきりした話でもないが、気になる事があってな」

正確に思い出そうとしているのだろう、炎の守護聖はアイスブルーの眼を宙に向けた。

「先週の月の曜日、ジュリアス様と聖殿の廊下を歩いていたら、ゼフェルとマルセルが喧嘩しているところに出くわしたんだ。といっても手が出るほどじゃない、どう見てもお子様の口喧嘩だったんだが、どういうわけかあの方はそれを止めようとなさらず、かといって無視する訳でもなく、黙って聞いていらしたんだ」

「確かに……珍しい事ですね」

リュミエールは、不思議そうに呟いた。日頃から年少の守護聖たちを厳しく指導しているジュリアスにしては、何とも似つかわしくない行動である。

「で、どうなったの」

オリヴィエの言葉を受けて、炎の守護聖は軽く首を振る。

「どうもならなかったさ。考え込むような様子でしばらく言い合いを聞かれた後、無言で執務室に戻られた。その後も、この事については何のおっしゃらなかったから、たぶんお子様たちは、聞かれていたのにも気づいてないだろうな」

「ふうん、あのジュリアスがねえ」

考え込むように呟くと、夢の守護聖はふと思いついたように、その色鮮やかな唇を開いた。

「そういえば、喧嘩の原因って何だったの?」

「それが途中から聞いたせいか、さっぱりわからなかったんだ。“草や泥ばかりいじってんじゃねーよ”とか、“そのうち頭の中まで機械になっちゃうんだから”とか、もう単なる罵りあいになっていたからな」

「おやまあ」

呆れたような表情で、オリヴィエが呟く。

 リュミエールは、先日緑の館で見た二人の姿を思い出し、ため息をついた。

「あれほど仲のいい子たちが、そのような言い争いをするとは……」

「おい待て、俺たちが気にしなきゃならないのは、ジュリアス様の方だろう。あいつらの口喧嘩なんて、日常茶飯事みたいなものだ」

オスカーが落ち着いた声で指摘すると、夢の守護聖も頷いてみせる。

「確かにね。それに、オスカーに原因が分からなかったんなら、ジュリアスにだって分からなかったんだろうから、 喧嘩そのものがどうっていうんじゃなくて── 例えばさ、どっちかのお子ちゃまが偶然、あの人にとって特別な意味を持つ言葉を口にしたとか、そういう事かもしれないよ」

「なるほど、その可能性もあるな」

炎の守護聖は記憶を追うように黙り込んだが、やがて諦めたように両手を挙げた。

「駄目だ、思い出せない。特定の言葉を気にかけられたのなら、それらしい反応があってもよさそうなものだが、俺の覚えている限り、ジュリアス様にそんな様子は見れらなかった」

「まあ焦らないで、何かのきっかけで急に思い出すって事もあるだろうし。とにかく今のところ、あんたの話はここまでなんだね?」

なだめながら確認したオリヴィエは、オスカーが頷くのを見届けると、水の守護聖に視線を移した。

「リュミエール、そっちは何かあった?」

「ええ……」

水の守護聖は、緑の館での出来事を話し出した。最初の方はあまり関心がなさそうだったオスカーもオリヴィエも、ルヴァの彼らしからぬ行動や、それを知ったクラヴィスの反応を聞くと、興味を引かれたように身を乗り出してきた。

「ルヴァが言った“段階”の意味を、クラヴィス様はおわかりだったんだろうか」

両腕を深く組んだ炎の守護聖が、誰にともなく疑問を呟く。

「そんな感じがするよね、何となく。だからってあの人たちが、知ってる事を互いに教えあってるとは限らないけど──ところで、リュミエール」

夢の守護聖は、不意に尋ねてきた。

「そのパーティがあったのって、オスカーの言ってた喧嘩より前、後?」

「そうですね、先々週の土の曜日ですから、二日前でしょうか」

「土の曜日……そうか、あの日にそんな事があったんだ」

一人で呟いて頷いている同僚に、オスカーが苛立ったように声をかける。

「勝手に納得してるんじゃないぜ、極楽鳥。あの日って何なんだ」

「ルヴァが、図書館に行かなくなった」

夢の守護聖は、ぽつりと言った。いつもは挑戦的なまでに艶やかな光を湛えている青い瞳が、霧のかかった湖のようにほの暗くくすんでいる。

「リュミエールの言ってた日から、ぷっつりとね。試験が始まってこっちに引っ越してからも、何かと用事にかこつけては通ってたのに」

 水の守護聖は、オスカーと眼を見交わした。どうやら相手も同じ事を考えているようだ。試験前に籠もっていたのは例外としても、地の守護聖は長年の習慣のように図書館に行っていたはずだ。それを全く止めてしまったというのは、自分たちが目撃した事件にも勝って、強い不安を掻きたてる情報だった。

「──いったい、何が起きてるっていうんだ! 明らかに普通じゃない事が続いてるっていうのに、ジュリアス様もディア様も、気にしないでいい、異常などないとおっしゃるばかりだ。いったいいつまで俺たちは、こんなにこそこそと、探るような真似をしてなきゃならないんだ」

炎の守護聖が、吐き捨てるように言った。

「そう思ってるのは、あんただけじゃないよ」

冷静に応じたのは、夢の守護聖だった。

「だから、こうやって共有しようとしてるんじゃないか、情報も悩みもね」

だがその言葉は、かえって相手の怒りを掻きたててしまったようだった。

「お前たちに何がわかる! 眼の前にいらっしゃるジュリアス様を、お助けする事もできないんだぞ。一人で思い悩んでいらっしゃるあの方に、理由も教えていただけない、何もして差し上げられないなんて、俺は──」

 自分の嘆きを言葉にされたような気がして、リュミエールは眼を見開いた。クラヴィスが占いを繰り返している姿が、何事かを案じて考え込んでいる姿が、胸中で鮮烈に蘇る。身を投げうってでも助けたい相手のために何一つできる事がないという辛さは、オスカーのように怒りに結びつきはしないものの、深い悲しみとなって、心を塞がんばかりに溜まり続けている。

 激昂のあまり立ち上がりかけていたオスカーを、夢の守護聖が押し付けるように座らせた。

「もう一度言うよ……そう思ってるのは、あんただけじゃない」

その声の優しくも寂しい響きに、同僚たちは驚いてオリヴィエを見つめた。

「同じなんだよ、私たち三人は」

ゆっくり言い足すと、夢の守護聖は視線を逸らして家僕を呼び、飲み物を入れ直すよう言いつけた。

 オリヴィエの言った意味を量りかねたまま、リュミエールはぼんやりとテーブルに視線を移した。そこにはいつの間にか出されていた紅茶が、誰にも気づかれないまま、すっかり冷めてしまっていたのだった。




 女王補佐官より守護聖たちに対し、育成や特別な用事がない限りは聖地に戻らないようにと指示が下されたのは、それから間もなくの事だった。





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