水の章・4−19
19.
ほどなく、資質を花開かせた女王候補たちによって、二つの大陸は停滞期を脱した。人口の増加と産業の発展、そして集落間の交流がよい循環を生み、今ではどちらの大陸の民も、ある程度の天災ならば自力でしのげるほどの文明を備えるまでになっていた。
その日、水の執務室を訪れたアンジェリークを、リュミエールはにこやかな笑顔で迎えた。
「エリューシオンは、この頃とてもよく成長しているようですね。きっと、あなたの頑張りが実を結び始めたのでしょう」
「ありがとうございます! ようやく、皆様の力をどんなふうに組み合わせたらいいか、わかってきたような気がするんです」
ほめられた少女は、嬉しそうに頬を染めて答える。
「この前の土の曜日も、神官には風のサクリアを頼まれたんですけど、水の力も一緒に送った方が良さそうに見えたので、育成をお願いしようと思って」
「そうでしたか。よく考えましたね」
水の守護聖は喜びと同時に、小さな衝撃といっていいほどの驚きを覚えていた。
試験開始時はサクリアの種類もよく理解できていなかった彼女が、これほどの短期間に、ここまで見事に力の使い方を身につけてしまうとは。どこから見ても普通の少女としか思われないが、やはり裡なる女王のサクリアが、この目ざましい成長を促しているのだろうか。
(女王……女王陛下……)
紗幕で覆われた玉座にあって、その面さえ定かに見た事のない尊い存在。しかしいつか、長い時を遡った過去においては、きっとアンジェリークのように可憐な少女だったのだろう。明るい声と花のような笑顔で、たとえ闇の守護聖であろうと惹きつけずにおかないような……
「リュミエール様?」
怪訝そうな声に水の守護聖は我に返り、そして自らを恥じた。人と話している最中だというのに、自分はいったい何を考えていたのだろう。堂々巡りをしながら沈み込んでいく、この螺旋状の思考は、いったい何度自分を捕らえれば気がすむのだろう。
「すみません、アンジェリーク。エリューシオンの育成でしたね」
「はい、少しだけお願いします。今日中に、風のサクリアも送っておきたいので」
それを聞いたリュミエールは、手元に風の守護聖宛の書類があるのを思い出した。
「今から風の執務室に行くのでしたら、ご一緒していいでしょうか。ランディに届けるものがあるのです」
「もちろんです、リュミエール様!」
金の髪の女王候補は、輝くような笑顔で答えた。
揃って風の執務室を訪れた二人に、部屋づきの侍従は申し訳なさそうに告げた。
「ランディ様は、あいにくただ今お留守でございます。宜しかったら、こちらでお待ちになりますか」
扉を開いたまま問われ、水の守護聖はアンジェリークを振り返った。
「私はこの書類だけ置いていこうと思いますが、あなたはどうしますか」
少女が答えようとした時、廊下の先の方から掠れた怒鳴り声が聞こえてきた。
「……つれいします!」
見れば炎の執務室から、他ならぬランディが飛び出してくるところだった。自室の前に人がいるのにも気づかない様子で、顔を伏せたままこちらに走ってくる。
「あぶない!」
リュミエールはアンジェリークの手を引いて、共に扉から身を離した。あとわずか遅かったら、二人のいずれかが風の守護聖と衝突していただろう。
その声にようやく気づいたのか、ランディは足を止めると、顔を腕でぬぐってからこちらを向いた。
「アンジェリーク、リュミエール様……」
「どうしたのですか、ランディ」
少年の面はひどく紅潮し、いつもの晴れやかさとは全く違う、まるで衝撃を受けたような表情を浮かべていた。
「俺は……俺は……」
風の守護聖は答えようとしたが、よほど混乱しているのか、続きが出てこないようだった。
「すみません、今は一人にさせてください。本当にすみません!」
ようやくそれだけ告げ、逃げるように自室に入っていってしまった少年を、リュミエールは呆然と見送った。
「あ、あの……」
アンジェリークも驚いたのだろう、頬を赤らめ、大きな眼を見開いてこちらを凝視している。
「どうしたのでしょうね。どうやらオスカーの部屋から出てきたようですが、彼らが喧嘩をするとは、あまり考えられませんし……ああ、失礼しました」
水の守護聖は、つかんだままだった少女の手を離した。
「……いえ」
金の髪の女王候補は、動揺を抑えるようにその手を胸に当てると、ひとつ息をついてから答えた。
「ランディ様にとってオスカー様って、ゼフェル様みたいな喧嘩友達とは違って、歳の離れた兄弟みたいですよね。それに、剣のお師匠でもあるってうかがいました」
「ええ、よく知っていますね。ランディはもう長い間オスカーの私邸に通って、稽古をつけてもらっているのですよ」
水の守護聖は静かに頷くと、炎の執務室に視線を向けた。
「とにかく、オスカーに尋ねてみます。あなたは忙しいでしょうから、他の用事をすませてから、出直した方がいいかもしれませんね」
「リュミエール様……」
「ランディなら、きっと大丈夫ですよ。風の力が、あの子を励ましてくれるはずです」
表情を曇らせる少女を力づけるように、水の守護聖は微笑んだ。
アンジェリークと別れて炎の執務室に向かうと、赤い髪の守護聖が机の奥から、不機嫌そうに見上げてきた。
「何だお前か、リュミエール」
ぶしつけな言葉には構わず、水の守護聖は単刀直入に切り出した。
「今、廊下でランディに会いました。この部屋から出てきたようでしたが、何かあったのですか」
オスカーは縦にした拳を顎にあて、低い声で問い返してきた。
「あいつと話したのか?」
「いいえ、一人にしてほしいと言って、部屋に入ってしまいました」
「……そうか」
しんとした執務室に、炎の守護聖の長い溜息が流れる。
「それが、俺にもさっぱりわからなくてな。大した話もしていないのに、急に怒り出して飛び出して行ったんだぜ」
首を捻っているオスカーを、リュミエールは黙って見下ろした。この人の口の悪さを思えば、気づかずに他人の神経を逆なでする可能性もないわけではない。しかし余人ならいざしらず、ランディならばそのような物言いにもきっと慣れているはずだ。その彼があそこまで度を失った様子を見せたのだから、原因は言葉遣い程度のものではなかったのだろう。
少年の表情を思い出しながら、水の守護聖は切り出した。
「差し支えなかったら、何を話していたか教えてもらえませんか、オスカー」
「別に構わないが──あいつは剣の稽古の時、無茶な切り込み方をしてくる癖があるんだ。その度に直させているんだが、最近またそれが出てくるようになったから、こう注意してやったんだ“今朝言い忘れたが、お前はまた悪い癖が出ているぞ。何も考えずに突っ込んでくるのは勇気じゃない、ただの蛮勇だ”ってな」
そこで相手が言葉を終えたので、リュミエールは、不思議そうに聞き返した。
「それだけですか」
「ああ、それだけだ。前に同じ事を言った時は、怒ったりしなかったんだがな」
困惑した表情のオスカーに、水の守護聖も同じ表情で応えるしかなかった。少なくとも今の話には、ランディがあれほど腹を立てる原因が見当たらない。
黙りこんでしまった二人の耳に、扉をノックする音が聞こえてきた。
「誰だ」
オスカーが声をかけると、意外な答えが返ってきた。
「ランディです。お詫びにきました」
炎の守護聖は一瞬リュミエールと眼を見合わせたが、すぐに言葉を返した。
「入れ」
栗色の髪の少年は、先刻とはうって変わって落ち着いた様子で、しかし恐縮した表情を浮かべて部屋に入ってきた。
「あ、リュミエール様」
「オスカーにお話があるのですね。では、私はこれで」
「さっきはすみませんでした。後から執務室にうかがいます」
リュミエールは頷くと、そのまま立ち去ろうとしたが、背後から聞こえてきた大声に、つい振り向いてしまった。
「さっきは、本当にすみませんでした! 俺、どうかしていました。せっかく注意して下さったのに、怒ったりなんかして」
見れば風の守護聖が、気持ちいいほど真っ直ぐに頭を下げている。その向こうではオスカーが、眼を丸くしながら相手をなだめようとしているようだった。
どういう心境の変化かはわからないが、とにかくランディが機嫌を直したらしいのに安堵して、リュミエールは炎の執務室を後にした。
自室に戻ってしばらくすると、先刻の言葉どおり、風の守護聖が訪ねてきた。
「リュミエール様、さっきは失礼しました。部屋にいらっしゃったのに、追い返すような事をしてしまって」
いつもの澄んだ眼を取り戻した少年に、水の守護聖は優しく微笑んだ。
「いいのですよ、誰にでも気分の悪い時はあるでしょうから。それより、アンジェリークが気にしていたようですから、後で安心させてあげて下さいね」
何気なく続けたリュミエールは、返ってきた言葉に眼を見開いた。
「実は、この部屋にくる途中でアンジェリークに会ったので、謝ってきたところなんです。寮まで行かなきゃならないかと思っていたのに、ちょうど闇の執務室から出てきたところを見かけたので、ラッキーでした」
「闇の……執務室……」
それでは彼女はあの後、クラヴィスに会いに行っていたのだ。好奇心に満ちた初々しい眼差しで、螺旋など知らぬまっすぐな足取りで。
アンジェリークならば、あの部屋の闇も照らし出してしまうだろうか。女王のサクリアがあれば、あの方の心を救い癒す事ができるのだろうか。自分には上りつめる事など到底できそうにない螺旋の道を、軽々と越えていってしまうのだろうか。闇の守護聖にとって、それは喜ばしい事なのだろうか。
そして、この自分にとっては……
一礼して退出していくランディを、水の守護聖は、半ば上の空で見送っていた。