水の章・4−20

20.

“用がなければ聖地に戻らないように”という補佐官指示には、間もなく“戻る場合もできるだけ短時間にするように”という項目が付け加えられた。

 温厚にして信頼厚いディアの言葉とあって、守護聖たちの間から不満が出る事はなかったが、女王試験に支障を来たさないためという理由には、首をかしげる者が少なくなかった。

 試験はごく順調に進んでいて、王立研究院の最新発表によれば、中央の島に行き着くのに必要な発展の実に六割近くを、両大陸はすでに遂げているという。このような状況下で、守護聖が何人か飛空都市を留守にしたところで、悪影響が出るとはとても思われなかった。




 そんなある日、リュミエールは例によって昼食後の休憩時間を、闇の執務室で過ごしていた。

 数歩先のカウチに横たわる黒髪長身の姿を見つめながら、竪琴に指を滑らせていく。どうかこの人の裡に届くように、僅かでも痛みが和らぎ温もりが戻るようにと願いながら、音の流れを形作っていく。

 そうしているうちに、水の守護聖は自らが流れの一部となったような感覚に陥っていった。静寂の闇をその主の元へとたゆたい、あるいは包むように周囲をゆるやかに巡っていく。静かに過ぎていく時間の中で、至福ともいえるほど心が満たされていく。

 だが、いつもの曲数を奏で終えると、水の守護聖は静かに指を止めた。

「今日はここまでにいたしますね。お聞きくださって、ありがとうございました……」

リュミエールは、努めて明るく言った。そうしなければ、切ない気持ちが声や表情に現れてしまうからだ。

「では明日、また聞いていただけますか」

慣例となっている問いかけに、クラヴィスは双眸を閉じたまま、微かに頷いた。その動きに、言葉にならない肯定に、自分がいちいち小さな高揚を覚えるのを、水の守護聖は感じていた。




 執務室に向かいながら、リュミエールは自問していた。本当にどうして、この時間はこれほど速く過ぎてしまうのだろう。それに──

(どうして、これほどの喜びをもたらしてくれるのでしょう……)

 クラヴィスの補佐をしている時、あるいは他の人のために演奏している時にも、もちろん喜びを感じてはいる。だが闇の守護聖のための演奏には、それらと別格の充実感があるように思われるのだ。

 扉を開けようとして、リュミエールはふと、来た方角を振り返った。侍従たちが静かに行き交う廊下の先に、あの闇の部屋がある。他の何ものにも換えがたい時の流れる場所がある。

 深く柔らかな吐息が、唇をついて漏れ出していく。それがいかなる感情から生まれたものか分からないまま、水の守護聖は自室に入っていった。




 執務時間が始まって間もなく、青い髪の女王候補が訪ねてきた。

「リュミエール様、水のサクリアを、フェリシアに少し送っていただけませんか」

「少しですね、わかりました」

水の守護聖は、ロザリアに微笑みかけた。

 上品な物腰のこの少女もまた、常人にはない力を感じさせる事がある。言葉や決断の一つ一つには、どのような問題をも乗り越えられるであろう強さと知性が表れ、青い眼に宿る光からは、全てを包むように大きく豊かな愛情が伝わってくる。もう一人の女王候補とは、近頃すっかり良い友人になっているようだが、やはり共通して備えている資質によるところも大きいのだろうか。

「それから……」

青い髪の少女は、珍しくためらいがちに言葉を継いだ。

「少々お話していっても、よろしいでしょうか」

「ええ、かまいませんよ。何の話をしましょうか」

執務室でロザリアが依頼以外の話をしてくるのは初めてだったので、水の守護聖は少し意外な思いで頷いた。

「リュミエール様のご意見をお聞かせ下さい。あの……クラヴィス様について」

「クラヴィス様について、ですか」

答えようとした水の守護聖は、それがとても難しいのに気づいた。どのような人だと言えばいいのか、その人をどのように思っていると言えばいいのか、考えるだけで胸が熱くなって、言葉が出てこない。どうやら自分は、人に説明できるほどクラヴィスの輪郭を見定めた事がないらしい。というより、それができるほど心を離して相手を眺めた事がなかったのだろう。

 だが、今はとにかく、少しでもロザリアの役に立ちそうな事を教えなければならない。水の守護聖は、懸命に記憶をたどった。

「そうですね、フェリシアにはまあまあ興味をお持ちのようです。外出や人と話されるのは、あまりお好きではないようですね。それから、あなたについては──どうしました、ロザリア?」

大人しく聞いていた少女が、突然、緊張したように身を強張らせたのを見て、リュミエールは言葉を切った。

「何でもありませんわ、すみません。どうぞ、お話をお続けになって」

他に変わった様子もなかったので、水の守護聖はそっと眼を閉じると、クラヴィスの僅かな発言を思い出しながら再び答えだした。

「──あなたの事は、気に入っていらっしゃるようですよ。いつでしたか、賢明で優れた女王候補だと仰っていましたから」

「ありがとうございました、リュミエール様」

その声の、あまりに弾んだ調子に驚いて、水の守護聖は双眸を見開いた。だがロザリアはいつもどおり、ただ品のいい微笑をこちらに向けているだけだ。

 一礼して退出していく女王候補を見送ると、リュミエールはふと、彼女がいつかバイオリンが趣味だと言っていたのを思い出した。もしかしたらロザリアにも、演奏によって特別な充実感を覚える事があるのだろうか。あるとすればそれは、どのような場合なのだろうか。

 機会があったら尋ねてみたいと思いながら、水の守護聖は自らの執務に意識を戻していった。


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