水の章・4−21

21.

 数日後、リュミエールは補佐官からサクリア放出の指示を受けた。

 約二週間ぶりとなる聖地に戻ると、急いで星の間で仕事をすませ、執務室に向かう。せっかく来たのだから、本当ならもう少しゆっくりしていきたいところだが、短時間で戻るようにと言われている以上、あまり悠長にしてもいられないだろう。

 留守を任せていた侍従に異常がないのを確認すると、水の守護聖は久しぶりに古い机についた。飛空都市の執務室も快適ではあるが、やはり長年使ってきたこの部屋には格別の愛着がある。

(いつになるのでしょう、再びここで執務を行うようになるのは……)

リュミエールは机上に両肘をつき、組んだ指に面を埋めた。

 いったいどれほどかかるのだろう、試験も女王交代も無事に終わり、以前のように平穏な生活が戻ってくるまでには。年長の守護聖たちが隠している問題も、その頃には解決しているだろうか。自分たちにも、秘密が明かされているだろうか。あるいは、伏せられたまま終わってしまうのだろうか。

 この事を考えるたびに、闇の守護聖がどれほど遠い存在なのかを思い知らされてしまう。あれほど毎日側にいても、親しみはおろか信頼さえ寄せてもらえないのだ。もしかしたら、疎ましく思われているのだろうか。近づく事も叶わないまま、相手が苦しみの中に身を埋めていくのを、ただ見つめるしかできないのだろうか。

 心が痛い。破れそうに痛い。せめてこれが、あの方になり代わっての痛みであったなら──




「リュミエール様」

近くで名を呼ばれ、水の守護聖は我に返った。

 顔を上げると、侍従が心配そうにこちらを見つめている。

「ご気分でもお悪いのでしょうか」

問われて気づけば全身が冷たい汗をかき、頭の芯が痺れたように痛んでいる。侍従の表情からすると、さぞひどい顔色になっているのだろう。ずいぶん暗い物思いに、それも急激に陥ってしまったものだ。

 リュミエールは落ち着きを取り戻すべく、大きく息をついた。打ち明けてもらえないのは寂しいが、あの秘密は闇の守護聖と自分の間だけの問題ではない。それに、もし疎ましく思っていたなら、また演奏を聴いてくれるかという問いに頷くような人ではないだろう。

「……ありがとう、大丈夫ですよ」

微笑んで答えると、青年は急に寒気を覚えた。汗が冷えたのだろうか、早く着替えた方がよさそうだが、今から飛空都市に戻って、それから私邸に移動するとなると、だいぶ時間がかかってしまいそうだ。

 やむなく水の守護聖は、聖地の私邸に向かう事にした。




 軽やかに走る馬車から外を眺めると、見慣れたはずの景色が、妙に珍しく感じられた。二週間ほどならば、出張で何度も聖地を空けた事はあるが、このような感覚は初めてだ。別の宇宙に行っていると、いくらか感性が変わってしまうのかもしれない。

(それにしても……)

リュミエールは違和感の正体に、次第に気づいていった。

 空や草木の色も水の流れも、行きかう人々の表情も、何もかもが奇妙に際立って見える。いや、眼に映るものばかりではない。鳥の声や空気の香りさえも、どこか刺々しく存在を主張しているようだ。守護聖の交代時にはよくそのサクリアの不安定さを感じるものだが、それに倣って考えれば、この現象は女王のサクリアが変動している事の表れなのだろうか。

 突然甲高い声が聞こえて、水の守護聖ははっとした。少し先の樹上で、二羽の小鳥が互いを威嚇しあっている。巣作りの場所でも争っているのだろうか。だがその様子はなぜか、これまで聖地で見た事のないほど激しく容赦ないもののように感じられた。

 リュミエールは、窓から眼を逸らした。早く私邸に戻りたい。住み慣れたあの館で、変わらない穏やかな時に身を浸し、嫌な気持ちを拭い去ってしまいたい。無意識に上布をかき寄せながら、青年は縋るように願っていた。




 ようやく到着した水の館は、いつもより深い優しさで主を迎えているようだった。どこまでも調和の取れた穏やかな色彩と静寂が、まるで柔らかな寝具のように心地よく感じられた。

 軽く湯を使い、急いで着替えると、水の守護聖は私邸の庭を見晴らした。聖地の水を巡らせた池や水路が、直線と緩やかな弧からなる美しい模様を描いている。水の色が心なしか暗く見えるのは、やはり空や草の色が奇妙な強まり方をしているからだろうか。

 リュミエールは庭から視線を外し、控えていた家令に留守の間の事を尋ねた。

「特に変わった事はございませんでしたが……リュミエール様、一つ伺っても宜しゅうございますか」

館主が承諾すると、家令は遠慮がちな声で言葉を続けた。

「守護聖様方の間では、今、お屋敷の改装がはやっているのでしょうか」

 家令の聞いたところによれば、一週間ほど前から、鋼と緑の館が、まるで争うかのように改装を始めたという。鋼の館の敷地からは庭木が取り除かれ、地面もほとんどが鋼鉄の敷板で覆われてしまったらしい。

「それから、緑の館ですが……」

こちらは建物自体ではなく、内部に設けられた機械類の大半が取り外されてしまった。そのため家僕たちは、まるで古代のように、動力を使わない道具だけで家事や通信などをこなさなければならなくなったという。

「ゼフェルとマルセルが、そのような事を……」

まだあどけなさの残るあの少年たちに、いったい何が起きているというのだろう。

“……家の中が機械だらけになっているように思えたんです……”

ふと思い出した言葉に、水の守護聖は慄然とした。飛空都市の緑の館でマルセルがそう答えたのは、たしか四、五週間ほど前の事だった。

“もう、その段階に……”

”段階……”

ルヴァが発し、クラヴィスが繰り返した言葉が、頭の中で激しく反響する。

 リュミエールは、弾かれたように立ち上がった。




 急いで飛空都市に戻った水の守護聖は、執務時間がすでに終わっているのを知ると、オスカーとオリヴィエに使いを出し、すぐ私邸に来るように言付けた。

 間もなく水の館にやってきた二人に、リュミエールはゼフェルとマルセルが私邸に不自然な改造を施している事、そして思い過ごしかもしれないがと前置きした上で、聖地の色彩が異様に見えた事を伝えた。

 しかし、反応は思いのほか鈍かった。

「用件って、それだけ?」

拍子抜けした表情で夢の守護聖が言うと、炎の守護聖も苛立ったように口を開く。

「わざわざそんな事で、俺たちに招集をかけたのか」

意外な答えに当惑する水の守護聖に、オリヴィエが諭すように話し出した。

「リュミエール、あんた、少し疲れてるみたいだね。聖地には私も昨日行ってきたばかりだけど、そんなギラついた感じには見えなかったよ。それに、その──お子ちゃまたちのお家いじりだって、私たちが探ってる事には全然関係ないじゃない」

「けれど……ルヴァ様やクラヴィス様、それにジュリアス様も、あの子たちの言動に関心を示していらっしゃったではありませんか」

リュミエールは食い下がったが、夢の守護聖はそっけなく答えた。

「あれはたまたまそう見えただけ、単なる偶然だろうって話になったでしょ」

「とにかくだ、俺たちが知りたいのは、この試験に何が隠されているか、陛下やジュリアス様たちが何を危惧されていらっしゃるかであって、ガキどものいざこざなんかじゃない!」

割り込んできたオスカーの声には、先刻より更に強い苛立ちが表れていた。

「これからはもう、下らない事でいちいち呼びつけないでくれ。そうでなくても近頃、ジュリアス様が神経質になられているようで、気が気じゃないっていうのに」

「ジュリアス様が?」

尋ねかけたリュミエールを無視して、炎の守護聖は席を発った。

「他に情報がないのなら、帰らせてもらうぞ。研究院にでも行って、手がかりがないか探してくる」

「はいはいご苦労さま。万が一にでも何か分かったら、こっちにも教えてねー」

からかうように言う同僚を、オスカーは険しい眼で睨みつけてから去っていった。

 その様子を見送ると、オリヴィエは深い溜息をついた。

「そろそろさ、私たちの情報交換会ってのも、止める潮時が来たのかな」

「え……?」

「結局のところ、これまで何一つ、確かな事はつかめていないんだよね。向こうは隠そうとするばかりで、こっちの心配なんて気づきもしない……」

いつも艶然としている夢の守護聖の面に、寂しさとも疲れともつかない影が射している。

(オリヴィエ……)

やがて夢の守護聖は静かに立ち上がると、館主に軽く手を振り、帰っていった。

 その背にかける言葉も見出せず、リュミエールはただ黙って見送る事しかできなかった。


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