水の章・4−23

23.

「リュミエール様も、そう思いませんか」

少年の声に、水の守護聖の意識は再び現実に引き戻された。二大陸の様子を映し出すモニターの前で、緑の守護聖がまっすぐにこちらを見上げている。

 そういえば昨日もあの後、事務官が急ぎの仕事を持ってきたので、考え事を中断したのだった。だが、その仕事に執務時間後までかかってしまった上、引き続き飛空都市と聖地の双方で多くのサクリアを放出しなければならなかったため、疲れと忙しさに紛れてすっかり忘れてしまっていたようだ。

 そして今もまた、眼の前に答えを待つ人がいる。せっかく思い出したところだが、やはり私的な考え事は後回しにするべきだろう。

「すみません、マルセル。もう一度話してくれませんか」

無意識に話を聞き流していたのを謝ると、リュミエールは今度こそ真剣に緑の守護聖の面を見つめた。

 水の守護聖に聞き返されるのが珍しかったのか、少年は一瞬戸惑ったような表情を見せたが、すぐに気を取り直して話し出した。

「はい。ええと……ランディがこの頃、やけに急な崖にばかり登りたがるっていうのは言いましたよね。それで昨日、僕の館の裏の方にある崖に登りたいって言い出したから、あそこは高くて危ないって止めたんです。そうしたらゼフェルが通りかかって、人工の筋肉や骨の方が本物より強いから、手術で取り替えれば大抵の所は平気になるなんて言い出すんですよ。ねえ、ひどいと思いませんか」

「そのような事があったのですか」

ようやく話を理解できたリュミエールは、頷きながら続けた。

「確かに、危険な事を平気などと、軽々しく言うものではありませんね」

だが歳若い緑の守護聖は、不満そうに口を尖らせた。

「それもそうですけど……怪我もしていない身体を、偽物と取り替えて強くしろなんて、僕、そっちの方がひどいと思うんです。それも冗談じゃなくって、本気の顔でいっていたんですよ!」

「マルセル……」

相手の憤りに気おされたように、水の守護聖は呟いた。なぜだろう、他愛もない少年たちの諍い話なのに、どこか不安を覚えさせるものがある。危険な崖に登りたがるランディ、人工体を勧めるゼフェル、それを嫌悪するマルセル、どれも彼らの個性からすれば頷ける事ばかりなのに、心が違和感を訴えている。

 当惑するリュミエールを緑の守護聖は不思議そうに見返していたが、ふとモニターの端にある時計に眼を走らせると、慌てたように言い出した。

「あっ、もうこんな時間だったんだ。僕、ディア様に呼ばれているので、そろそろ行きますね」

「ええ……」

曖昧に頷いた後、水の守護聖は急いで付け加えた。

「くれぐれもランディには、危険な事は止めるよう言ってくださいね。私からも注意するつもりですから」

「ありがとうございます、リュミエール様。それじゃ、失礼します!」

少年は、いつもの快活な表情で部屋を出て行った。

 リュミエールは一つ息をつくと、自らも研究院を後にした。




 飛空都市の森の湖には、哀しいほど澄んだ空が、今日も映し出されている。聖地のそれを模して造られ、同じ水を運んできたというだけあって、美しくも神秘的な趣のある光景である。

 何度も中断しなければならなかった物思いに、今度こそちゃんと向き合おう。そよ風を受けて微かに揺れる水面を見つめながら、リュミエールは思い返していた。

 ロザリアが言っていた事──演奏を聴いてもらうのが好きなのは、自分の音を受け入れられ好まれるのが嬉しいからだ──は、真実だろう。聞き手を楽しませ癒し、あるいは感動を引き起こす喜びを、この言葉は全て含んでいるように思われる。

 だが、それならば、あの感覚は何なのだろう。闇の守護聖のために演奏していて、自分が音と一体となったように思われた時の、あの至福の感覚は。音のみならず自分自身をも受け入れてもらえた、好んでもらえたと感じたのだろうか。それが何より嬉しかったというのか。

(好まれ、受け入れられる……クラヴィス様に……)

その名を意識に浮かべるだけで、心に温かいものがこみ上げてくる。その表情、仕草、数少ない言葉の一つ一つを思い返すだけで、他の何事も考えられないほど胸がいっぱいになる。

 それほどに素晴らしい存在なのだと、気づいていない人もいるようだが、少なくとも自分は闇の守護聖の素晴らしさを知っているがために、こうして感じ入っているのだと、今までは思っていた。自分の意思など関係なく、ただ相手の資質がそうさせるのだと。

 だが思い起こせば、それだけでは説明のつかない感情が、この心には確かにあった。時には喜びとして、時には不快感として、強く何度も胸を塞ぎ、あるいは揺さぶってきた想いが。少しでも闇の守護聖の心に近づけたと感じた時の、例えようもない嬉しさ。自分以外の誰かがその人と特別なつながりを持つように感じた時の、心配とも苛立ちともつかない動揺。

 常に相手の事だけを考えているつもりだったのに、本当は自分の事ばかり気にしてきたのだろうか。自分がどう思われているのか、自分が相手にとってどのような存在なのか、そのような事ばかりを。永きに渡って近く接してきたのも、好まれたい、受け入れられたいと、ただそのような欲にかられたがためだったのか。

(あの方に、私は……望んできた……)

たとえ役に立たなくとも、闇の守護聖のためを思う、その気持ちにだけは自信があったのに、全てが偽りだったというのだろうか。

(……何を……)

大きな存在となる事か、価値のある者となる事か。いずれにしろ、背筋が寒くなるほど利己的な欲望だ。

 周囲の世界が、滑るように上昇していくのを、リュミエールはぼんやりと感じていた。明るい色をした草が、普段よりずっと近いところで揺れている。眼のすぐ下、手を伸ばせば届きそうなところに、湖面が輝いている。

 水の守護聖は、自分が地に両膝をついているのに気づいた。前にも、このような事があったような気がする。聖地の湖畔でふと気が遠くなり、立っていられなくなった事が。

 そうだ。あの時、痛いほど強い力で、この躯を支えていてくれたのは──

 湧き上がる回想を拒むように、リュミエールは立ち上がった。腕に食い込んでいた指の感触を、息のかかりそうなほど近くから見つめてきた瞳を、記憶に蘇らせてはならない。それらのもたらす甘美な思いを、自分に許してはならない。相手を思っていると見せかけながら、ただ己の欲ばかりを追ってきた、この汚らわしい自分には。

 それなのに、足元の草地を見つめているだけで、あの日の事が思い出されそうになる。何とか逃れようとさまよったリュミエールの視線は、ふと空に向けられた。

(ああ、もう太陽が中天に……)

特に用事のある守護聖以外は、昼食をとり始めている頃だろう。自分にとっては、闇の執務室での演奏につながる時間でもある。

 だがこの習慣が、自らの望みを遂げるためのものでしかなかったとしたら。喜んで聴いて下さるあの方を、騙し裏切り続けてきたのだとしたら。

 リュミエールは思い悩みながら、馬車を止めてあった場所まで戻っていった。

「宮殿……いえ、王立研究院へ」

研究院に着いたら、闇の執務室に連絡を入れ、演奏を休ませてもらおう。約束をたがえるのは申し訳ないが、とても今までのように演奏できるとは思えない。本当なら、しばらく会う事さえ避けたいくらいだ。身勝手な欲を偽りの優しさに包んで接してきた自分に、あの方に合わせる顔など、あるはずもない。




 間もなく研究院に戻ったリュミエールは、そこからクラヴィス付きの侍従に連絡を入れると、大きく息をついた。

 先刻、二大陸の様子を観察していた部屋の扉が見える。また同じ所に行ってもしかたがないが、かといって、このまま通路で立ち尽くしているのも不自然だ。

 どうしたらいいかと考えていると、次元回廊室に向かう通路から、赤毛の青年がやってくるのが見えた。

「おや、確か今は昼休み時間だと思ったが」

「オスカー……」

「クラヴィス様用定期コンサートは休演か。珍しいな」

水の守護聖は、ただ無言で頷いた。

 一方オスカーは、相手の様子を気にかける様子もなく周囲を見回しながら、苛立ったように言い出した。

「まったく聖地にも、こう毎日のように通わされると、忙しくてかなわないぜ。もう少しまとめて放出させてくれたら、効率がいいと思うんだが──ところで、ランディを見かけなかったか」

「いいえ、私も来たばかりですが、今のところ守護聖には誰も会っていません」

「そうか。次元回廊室の係員が、さっきこの辺で見かけたって言ってたんだが……さてはあいつ、俺が来るのを察して逃げたな」

冗談めかして言っているのだろうが、リュミエールはなぜかその表情に、先刻マルセルに対して抱いたのと似た不安を覚えた。普段なら親愛の情だけが伝わってくる場面なのに、微かにだが悪意めいたものが感じられてならないのだ。弟のように可愛がっている風の守護聖に対して、オスカーがそのような感情を持つはずもないのに。

 得体の知れない不安を拭い去ろうと、水の守護聖は自分から話しかけた。

「ランディに、何か用なのですか」

「用ってほどじゃないんだが、今朝また人の注意にむくれて帰っちまったんでな。こんな事が続くのなら、もう二度と来るなって言ってやるつもりなんだ」

「何……ですって」


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