水の章・4−25

25.

 豊かな水の流れ落ちる滝も、青空や木々を映す湖も、慰めにはならない。水の守護聖は、救いを求めるように周囲を見渡したが、不安や心細さを弱めてくれる何ものも見出す事はできなかった。

 このままではいけないと心が訴えてくるのに、どうしたらいいのかがわからない。いくら考えても、迷っても、何ができるのかがわからない。

「なぜ、このような事になってしまったのでしょう。皆、互いを思いやる心を忘れ、自分の事ばかり考えて……!」

自らが口走った言葉に、リュミエールは愕然とした。

(いけない、このような思いに囚われていては)

 気づけば湖面に映る自分の表情が、ひどく険しく攻撃的なものになっている。助けられない辛さが、悲憤に──いや、非難にすりかわってしまうところだった。落ち着かなければ。とにかく平静な心でこれまでの事を、そしてこれからの事を考えなければ。

 だが、そう思えば思うほど、心はある香りを、ある空間を求めていく。暗い静寂の中で無心に竪琴を奏でていられる、どこよりも恋しく懐かしい場所。

「……クラ……」

呼びかけようとする自分を、青年は懸命に押し留めた。そうしながら、今更のように嘆じていた。

 一人では平静を保つ事さえできない、それほどに、あの方に頼ってきたのだ。事あるごとに動揺する弱い心でも、あの方がいらっしゃればこそ、今まで過ごしてこられたのだ。

 そのような存在に、癒すためと詐称して近づいていってしまった自分には、もう頼るものなどあるはずもない。失ったのではなく、自ら手放してしまったのだ。

 思い出深く美しい湖の畔で、リュミエールは涙も出ないほどの絶望に打ちひしがれていた。




 しばらくたって、青年は熱に浮かされたような足取りで、馬車へと戻り始めた。

 飛空都市に戻ろう。闇の守護聖に近づく事は許されなくとも、せめてあのサクリアを、少しでも近く感じられる所に行こう。それさえも許される立場ではないと分かってはいるが、このままでは同僚たちを戻すどころか、思考も何もかもが止まったままになってしまう。

(もしこれが、お側に行きたいという欲心から起きた考えだとしても……今だけはどうかお許しください、彼らを助けるために)

祈るように呟きながら、水の守護聖は馬車を降りた。




 聖地側の次元回廊室に入ると、奥にいた職員が振り向きざまに声をかけてきた。

「ランディ様……あっ、リュミエール様でしたか。大変失礼いたしました」

意外な名前に、水の守護聖は思わず聞き返した。

「ランディ? 彼もこちらに来ているのですか」

「はい。つい先ほど到着されたのですが、何か忘れ物をされたように仰っていましたので、飛空都市まで取りに戻られるのかと思いまして」

「そうですか……」

先刻オスカーから聞いた事を、リュミエールは思い出していた。確か、飛空都市の次元回廊の職員が、風の守護聖を見かけたようだと言っていたはずだ。それが正しければ少年は、この自分や炎の守護聖より先に次元回廊近くまで来ていながら、二人がいなくなるまで待ち、それから聖地に来た事になる。もしかしたら、あの会話を耳にして、気まずく感じていたのだろうか。

「それで、忘れ物というのは何だったのですか」

「申し訳ありませんが、そこまでは……私に聞こえましたのは、“しまった、忘れちゃったな。あれがないと……”とか“まあいい、無ければ無いでやってやるさ”といった、独り言のようなお言葉だけでしたので」

 使う予定だった物を取りに戻れないほど急いでいたのなら、多少気まずい事があったからといって、出発を遅らせたりするものだろうか。それとも他に、人目を忍ばなければならない理由でもあったのだろうか。そこまでして、少年はいったい何をしようとしているのだろうか。

「ありがとう。私も、もう少しこちらにいる事にします」

恐縮する職員に礼を言うと、リュミエールは踵を返した。

 前よりもひどい胸騒ぎがする。兄とも師とも慕っていたオスカーの言う事も聞かず、がむしゃらに切りかかり続けた挙句、むくれて飛び出していってしまった風の守護聖。最近は一対一で話す機会もなかったが、マルセルによれば、高く危険な崖に登りたいと、さかんに口にするようになったという。

(そう、確か緑の館の向こうにある……)

聖地を囲むようにそびえ立つ高台の中でも一際高く、そして急傾斜の岩肌を持つ崖を、水の守護聖は思い出していた。下から見るだけでも恐れを覚えるほどのそれを登ろうとするなど、蛮勇以外の何物とも思われないが──

 蛮勇。記憶の中に、甲高く響くものがある。

(まさか……ランディ!)

リュミエールは、自らの馬車に向かって駆け出していた。




 青空の下、緑の館を囲む森の彼方に高台が見えてきた。裾の方と頂上には木々が茂っているものの、斜面は灰色の岩肌がむき出しになっているので、万一転落して身体をぶつけでもしたら、とてもただではすまないだろう。

 思い過ごしであってほしいと願いながら、水の守護聖は馬車を急がせた。緑の館の側を駆け抜けると、色とりどりの花の咲き乱れる草地を横切り、裾の森に近づいていく。リュミエールは窓に顔を寄せ、登るのに一番危険な場所がどこなのか、見定めようとしていた。勾配のきつさ、凹凸の激しさからいうと、あの辺りだろうか……

「リュミエール様、申し訳ありませんが、これ以上は馬車で入れません」

御者が車を停めると、水の守護聖は物も言わずに地面に降り、徒歩で森に入っていった。

 太陽の位置を確認しながら、最前見当をつけた方角に向かっていく。そうして、木々の間から岩肌が見え隠れするようになってきた時、前方から声が聞こえてきた。

「……ンディ!」

鳥ではない。高く鋭い、人の声だ。

「危ないよ! 戻ってきてよ、ランディ!」

(……マルセル!?)

声のする方に走っていくと、いくらか木々の切れたところに、緑の守護聖が背を向けて立っているのが見えた。すぐ眼の前となった崖の上に向かって、幾度も同じ言葉を叫び続けている。

「ランディ、危ないったら、ねえ、お願いだから降りてきて、ランディ!」

ぞっとする思いで視線を上げたリュミエールは、はるか森の上、ほとんど垂直に見えるほど急な崖の斜面に、栗色の髪の少年が素手で取り付いているのを見た。

「ランディ……!」

震える声が漏れる。

 それを聞きつけたマルセルは、泣き出しそうな顔で振り向くと、頭上の同僚を指差した。

「リュミエール様、ランディを止めてください! ロープも何もなしで登ってるんです。もし落ちでもしたら……」

その声が終わる前に、水の守護聖も呼びかけていた。

「ランディ、下りていらっしゃい! こんな事をしてはいけません!」

新たな声が加わったのに気づいたのか、頭上の少年が一瞬動きを止めたように見えた。

「ランディ!」

マルセルが、一際大きな声で呼ぶ。

 ランディは僅かに振り向き、叫んだ。

「俺は……意気地なしなんかじゃない!」

その瞬間、風の守護聖の身体は平衡を失ったように傾いた。

 手がかりを求める腕が空を切り、身体が落下してくるのを、リュミエールはただ、叫びながら見つめる事しかできなかった。


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