水の章・4−28

28.

「崖のずっと高いところを、ランディが登っているのが見えたんです。もう僕、びっくりして、崖の下まで走っていって、危ないから下りてきてって大声で叫びました。でも、ランディは──ちょっとこっちを向いたから、声は聞こえていたはずなのに──下りるどころか、反対に登っていこうとしたんです」

マルセルが辛そうに眉をひそめるのを、一同は黙って見守った。

「だから僕、下りてって叫び続けていました。そのうちにリュミエール様がいらっしゃって、一緒に呼びかけてくださって、それを聞いたランディが、何か叫びながら振り向こうとしたら、バランスを崩したみたいにぐらっとして……こっちに落ちてきたんです」

「叫んだ? リュミエールによると、そなたたちに答えようとしたとの事だったが」

ジュリアスの疑問に、水の守護聖は状況を思い出しながら答えた。

「自分は弱虫ではないとか、そのような事を大声で言っていました。声をかけた直後だったので、私たちへの返事だと思ったのですが、あるいは違ったのかもしれません」

「“意気地なし”だ」

鋼の守護聖が口を挟んできた。

「あん時は俺、そろそろこっちに戻る時間だったから、最後に聖地を一周りぶっ飛ばしてこうって思って、ちょっと高い位置でエアバイクに乗ってたんだ。そしたらあの崖に、何かが虫みてーに張り付いてるのが見えてさ、まさかと思って近づいてったら、あいつのバカ声が聞こえたんだ。“俺は、意気地なしなんかじゃない!”ってな」

「“意気地なし”……」

ジュリアスが繰り返した。声は穏やかだったが、端正な面には濃い陰影が射している。

「誰かこの言葉について、思い当たる者は──どうした、オスカー」

その場の皆に問いかけようとして、首座の守護聖はふと傍らの青年に眼を向けた。

 つられてそちらを見た者たちは皆、驚愕の表情を浮かべた。精悍な面は病人のように蒼ざめ、いつも不適な笑みを浮かべている氷青の瞳には、激しい緊張と動揺が現れていたのだ。

「……俺です」

掠れた声で、炎の守護聖が言う。

「あいつが崖を登ったのも、怪我を負ったのも、俺のせいです」

「なっ……」

ジュリアスの漏らした声もまた、守護聖たちを驚かせるほど上ずったものだった。

 だが、すぐに自制心を取り戻したのだろう、続く問いかけは、いつもの光の守護聖の冷厳さを取り戻していた。

「オスカー、今は事実を述べる時だ。何があったのか、隠さず話してみよ」

「はっ」

赤い髪の青年は短く返答すると、裁きを待つ者のようにうなだれて話し出した。

「今朝、剣の稽古をしていた時、俺はランディに言いました──お前は意気地なしだ、と」

「てめー」

突然怒りの声を上げたのは、鋼の守護聖だった。

「何て事言いやがったんだ!」

「ゼフェル」

宥めるように呼びかけたルヴァに、緑の守護聖が急いで付け加える。

「あの、ルヴァ様、ゼフェルは前にランディに同じような事を言って、びっくりするくらいひどく怒らせてしまった事があるんです。だから僕たち、彼にそういう言葉だけは使わないようにしようって決めていて……あ、もちろん、他の方たちはご存じない事ですけど」

 確かに他の守護聖たちにとっては初耳の出来事だったが、その状況は想像に難くなかった。風の守護聖が自らの司るものを人一倍誇りに思い、また強く意識しているのは、彼の日頃の言動から容易に察せられたからだ。

 と同時に守護聖たちは、ランディがまだ年若く、充分な度量が備わっているとはいいがたい段階なのも知っていた。その彼が、もし自身の勇気を否定するような言葉を、しかも先輩として師として敬慕している炎の守護聖からぶつけられたとしたら、傷つき逆上してもおかしくはないだろう。

(けれど……)

水の守護聖の心に、ふと不審の影が射す。

(いくら逆上したからといって、あのように危険な行動に走るほど、ランディは思慮のない子だったでしょうか……?)

 風の守護聖が件の崖に登りがっていると聞いたのは、それほど前でもなかったはずだ。教えてくれたマルセルが、途中からゼフェルに対する非難を始めたために、話題も関心もそちらに移ってしまったが、あの時もう少しきちんと聞いていれば、何か打つ手もあったのだろうか。

 考えている間に、再び鋼の守護聖がオスカーに詰め寄っていた。

「昨日今日の付き合いじゃあるまいし、あいつがそう言われてどんな気持ちになるか、てめーにだって、わからねーはずがないだろう!」

炎の守護聖が、苦悶の表情で頷く。

「わかっていた。それでも……我慢できなかったんだ。がむしゃらに切りかかってくるばかりで、どう言っても態度を改めようとしないランディの──あいつの、弱さが」

「何だと、もう一度言ってみろ!」

 怒りに任せてつかみかかってきた少年に、オスカーは無抵抗のまま胸倉をつかまれた。すぐに地と緑の守護聖たちがゼフェルを引き戻したが、赤毛の青年はその勢いで前に引き倒され、床に膝をついてしまった。

 眼を覆いたい気持ちを堪えながら立ち尽くすリュミエールの耳に、闇の守護聖の低い呟きが流れてくる。

「弱さが……我慢できぬ、か」

(……クラヴィス様?)

黒衣の姿を見上げようとした時、光の守護聖が感情を排した声で呼びかけるのが聞こえた。

「オスカー」

いかなる蒼天よりも青い瞳が、炎の守護聖を見据えている。

 弾かれたように立ち上がったオスカーは、ジュリアスの前に進み出ると、覚悟を決めた面持ちで次なる言葉を待った。

「今話した事は、みな事実なのだな」

「はい。ジュリアス様」

「うむ……」

首座の守護聖は一息おくと、厳粛な表情で告げた。

「当分の間、謹慎を言い渡す。ただし今は特別な時期ゆえ、試験を含む執務のための外出のみ許可する事とする。最終的な結論は、ランディと話し、陛下にお知らせした後に下す事になろう」

「わかりました……が、一つ教えてください」

黙って従うと思われたオスカーが言葉を返したので、一同は驚いて彼の方を見つめた。

「その執務に、ジュリアス様の補佐は含まれているのでしょうか」

「いや、含まれない。お前自身の執務ではないからな」

「しかし、それでは──!」

今までの粛々とした態度が、一転して憔悴したそれへと変わっていた。

「このところジュリアス様のお仕事は、量といい煩雑さといい、日ごとに増していくばかりではありませんか。この上俺の補佐までなくなったら、お体がもちません。このような事を言える立場でないのはわかっていますが──」

一瞬躊躇った後、炎の守護聖は懇願するように訴えた。

「──どうか、ジュリアス様のお忙しさが収まるまで、謹慎を待ってください。その後ならば、いかに重い懲罰でもお受けいたします!」

 他の場合であったなら、それは厚顔な願いと思われただろう。だが、青年の声に利己的な響きは微塵もなく、ただ光の守護聖を思いやる強い気持ちだけが表れていた。

 一同が息を呑んで見守る中、ジュリアスは短く答えた。

「ならぬ」

炎色の髪の青年が、絶望の表情で天を仰ぐ。

 その脇から、地の守護聖が遠慮がちに声をかけた。

「あー、ジュリアス、そうは言いますがね、オスカーの案も少し考えてみたらどうでしょうか。あなたが忙しいのは皆知っていますし、彼は普段からあなたの補佐をしていますから、侍従や私たちではわからない執務内容を把握しているのでしょう。この際ですから、少しだけ謹慎の開始を遅くしたって……」

「その必要はない。今夜の集いは、これまでとする」

遮るように言うと、光の守護聖は白い衣を翻して退出していった。

 そのまっすぐ伸ばされた背が、乱れなく堂々とした足取りが、なぜかリュミエールにはひどく悲しげに見えた。



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