水の章・4−29
29.
翌朝、リュミエールが聖殿の執務室に着くと、すぐに夢の守護聖が訪ねてきた。
「おはよ、リュミエール。お仕事前に悪いんだけどさ、昨夜の話がどうなったのか、ざっと教えてもらえない? 私、途中で飽きて出てっちゃったから」
オリヴィエはいつもの気さくな調子で話しかけてきたが、鮮やかに彩られたその端正な面に、どこかやつれた様子が見えるのは、やはり体調が優れないせいだろうか。
「大丈夫なのですか。気分が悪そうだったと、ルヴァ様がおっしゃていましたが」
「へえ、そんな事言ってたんだ、あの人」
計算されつくした形の眉が一瞬、喜びとも悲しみともつかない形に歪み、そして戻る。
「別に何ともないから、心配しないで。それより聞かせてよ、あれからどんな話になったの?」
「はい……では、少し長くなりますから、その椅子にでもかけて聞いてください」
水の守護聖は侍従に紅茶を出すよう頼むと、昨夜の成り行きを話し始めた。
「……というわけです。最終的な結論は、今日ジュリアス様がランディとお会いになり、ディア様と話されてからになると思いますが」
ときおり紅茶を口にしながら聞いていたオリヴィエは、話が終わると、優雅な仕草でカップを皿に置いた。
「ふうん、そういう展開だったとはね──オスカーの奴、かなりしょげてたんじゃない?」
「ええ、そのように見えました」
「仮に自分の言葉が直接の原因だったとしても、ちょっと厳しすぎる気がするものね。ジュリアスにしたって、あいつの補佐を蹴るなんて、自分で自分の首を絞めるようなもんじゃない。あの人もそろそろヤキが回ったかな、なーんてね」
夢の守護聖は軽妙な口調で続けると、椅子からすっと立ち上がった。
「教えてくれてありがとう。さて今度は、あの赤毛オオカミをからかってこようかな」
同僚を慰めにいくのだと察したリュミエールは、相手の身を心配して声をかけた。
「これからすぐ、ですか? 少し休んで、出直した方がいいのではありませんか」
「大丈夫、大丈夫。こういうのは、思いついた時にやっとくもんなんだよ」
オリヴィエは、平気さを強調するように手を振ってみせると、ふと物思わし気な表情で呟いた。
「少しは、昨夜の罪滅ぼしもしなきゃいけないし」
「オリヴィエ?」
水の守護聖には、相手の言っている意味がわからなかった。
「ああ、ごめん。何だかこの頃私、物事を億劫がるクセがついたみたいでね、昨夜もそれでフけたようなもんだから、ちょっと気をつけなきゃって思ってたんだ。ほら、老化ってこういうところから始まるのかもしれないでしょ──おー、やだやだ!」
美しさを司る青年は、大げさに顔をしかめてみせると、扉に向かって歩き出した。
「じゃ、おいしいお茶をごちそうさま」
「どういたしまして……」
『くれぐれも、無理はしないでくださいね』と続ける前に、夢の守護聖は執務室を出て行った。
これから直接炎の執務室に向かい、あのからかうような口調でオスカーの悩みを引き出すのだろう。そうしておいて、後になって気づくようなさりげなさで、慰め励ますのだろう。いつもそのように人を気遣うのが、オリヴィエのやり方なのだ。
同僚たちとはあまり親しく接していないように見える夢の守護聖だが、折に触れて発する言葉がいつも的を射ているのは、彼が周囲の者たちをよく見ており、また理解しているからに他ならない。他人の事など放っておけばいいと口癖のように言っていながら、本当は誰よりも全員の和を望んでいるのかもしれない。
『ああ見えて、あの人は仲間思いですからね……』
ルヴァの言葉が耳に蘇る。
『……今回の事に、ショックを受けたのかもしれませんよ』
守護聖たちの多くが刺々しい気持ちになりがちな今の状態に、オリヴィエも心を痛めているのだろうか。あのしなやかで強靭な心をもってしても、集いに出ているのが耐えられなくなるほどに。
(いつまで……続くのでしょう)
眼の前にきているはずの試験終了が、まるで永遠にたどり着けない未来にあるように感じられてくる。
弱気を引きはがすように頭を振り、リュミエールはその日の執務に取りかかった。
午前中の書類を処理し終えると、水の守護聖はクラヴィスを補佐すべく闇の執務室に向かった。
通いなれた部屋の前で足を止め、ノックしようと手を上げかけた時、目の前の扉が音もなく開き、中から声が聞こえてきた。
「……ではクラヴィス、あなたもお気をつけて」
言いながら姿を現したのは、地の守護聖だった。その声や物腰はいつもの穏やかなものだったが、柔和な面には、日頃とかけ離れた深刻な表情が浮んでいる。
「あっ……リュミエール」
扉を閉めて向き直ったルヴァは、そこに同僚の姿を認めてうろたえた。
「ルヴァ様、どうかなさったのですか。お顔の色がよろしくないようですが」
「い、いえ、いたって健康ですよ。それじゃ、私はこの辺で」
逃げるように去っていく地の守護聖を、リュミエールは黙って見送った。尋常でない様子が心配ではあったが、追いすがったり呼び止めたりするのも、かえって気の毒に感じられたのだ。
間もなく、ルヴァの姿が廊下の角に消えると、青年は気を取り直して重厚な扉を叩いた。
「……開いている」
いつもと変わらない声が──心なしか低めではあったが──いつもの言葉で答えてくれる。
それを聞いただけでリュミエールは、自分の面に微笑が戻ってくるのを感じていた。