水の章・4−30


30.

 暗色の部屋に入っていくと、執務机の向こう側に黒衣の姿が見えてきた。

「おはようございます。宜しければ、これからお手伝いをさせていただきたいのですが」

僅かに頷いた白皙の面が、机の隣に置かれた小卓に向けられる。そこには今日届けられた書類が、すでにうず高い山となって積まれていた。その量に水の守護聖は眼をみはったが、クラヴィスは何も言わず、手にした書類へと視線を戻した。

 とりあえず、先刻の地の守護聖の訪問について、自ら話す気はないようだ。そう見て取ったリュミエールは、さっそく書類の整理に取りかかった。




 内容に眼を通し、関連のあるものごとに分けていくと、書類は間もなくいくつもの大きな束になった。その一つを執務机に移しながら、水の守護聖は心配そうにクラヴィスを見やった。

 試験終了が近づくにつれて、自分の仕事が少しずつ増えているのには気づいていたが、闇の守護聖の仕事の増え方は、それより格段に激しいように思われる。しかも、処理に手間のかかる難しい仕事ほど多くなっているようなのだ。

(そういえば……)

昨夜の集いでオスカーが、ジュリアスの仕事について同じような事を言っていた。もしかしたら、地の守護聖を含めた年長の三人が皆、このように重い負担を強いられているのかもしれない。

 現在、宇宙がいくらか不安定になっているのは、様々なデータから見て明らかだった。守護聖交代時でさえサクリアの変動の影響を受けるのだから、女王交代という大事を控えた今、このような状況になるのは当然といえるだろう。そのために育成が複雑になっていくのも、仕方のない事だ。

 むしろわからないのは、新宇宙の育成についてだった。試験の行われている惑星以外の全域は、現宇宙と同じように女王が──補佐官を通して──育成指示を出しているが、それが近頃では、範囲といい量といい、実に細かく厳しい指定を伴うようになってきたのだ。

 試験惑星以外にはまだ人類が発生していないのだから、当然、文明や種族といった、事態を複雑化する要因も生じておらず、現宇宙ほどきめの細かい育成は必要とされていないはずだ。それなのに育成指示は、異様なほど頻繁に、そして詳細を極めた形で出されている。まるで、遠からず新宇宙全体に、何か特定の事態が生じると確信し、それに備えようとしているかのように。

(いったい何をお考えなのでしょう、陛下は……)

偉大にして慈悲深い女王陛下の事だ、きっと自分などには考え及びもしない深慮があるに違いない。そう信じる気持ちに偽りはないが、なお拭い去れない不安が心にあるのも、また事実だった。

 女王陛下。宇宙の祝福を受けた尊い存在。かつて女王候補として聖地に現れ、当時の守護聖たちと触れあい、この方が心を惹かれた……相手。




「どうした」

突然かけられた声に、リュミエールは息の止まりそうなほど動転した。

 無意識に見つめていた白い横顔の、その切れの長い双眸だけが、ゆっくりこちらに向けられる。

「……ずっと、その姿勢でいるようだが」

気づけば書類を置いた手もそのままに、執務机の横で立ち尽くしていたようだ。

 青銀の髪の青年は慌てて半歩下がると、動揺を抑えながら謝った。

「申し訳ありません、つい考え込んでおりました」

「書類に不備でもあったのか」

「いいえ、ただ……」

答えながらリュミエールは最初に考えていた事を思い出し、口ごもりながら続けた。

「……クラヴィス様のお仕事が、ずいぶん多くなったと、それを驚いておりました」

「多くなった……?」

闇の守護聖はゆっくりと頭を巡らせ、室内にある書類の束を眺めた。自らが手にしている分と机上に置かれた束、そして、傍らの卓に積まれた未分類の山。

 そうして初めて気づいたように顔をしかめると、呟くように言った。

「やむを得まい」

それは、まるで今の状態を予期していたかのような、平静な声だった。

 水の守護聖は、嘆息を堪えるので精一杯だった。やはり、この方は知っているのだ、宇宙で今起こりつつある現象の、その本当の意味を。知っていながら、他の者たちに隠したまま、苦しんでいる。

 人と分かちあえば楽になるのでは思うと、すぐにでも問いただしたい衝動にかられる。だが、もし話して楽になるような事でなかったとしたら、あるいは、この方自身が隠す事を望んでいるとしたら、問うても苦しみが増してしまうだけだろう。

(何のお力にも……なれないのでしょうか、私には……)

絶望の表情を見せまいと、リュミエールは小卓に向き直った。

 その時、すぐ側で人の立ち上がる気配がした。

「リュミエール」

驚いて顔を上げると、眼の前に、闇の守護聖の丈高い姿があった。

 暗色の瞳には悲しみにも似た深い表情が現れ、薄い唇は何かを言おうとするかのように開かれている。波立っていた気持ちが白檀の香りに包み込まれ、限りない広がりの中に鎮められていく。

 黒衣に包まれた長い腕が、白い手が、こちらに近づいてくるのが見えた。

(クラヴィス……様……)

胸に痛いほどの動悸を覚えながら、リュミエールの心は不思議なほど落ち着いていた。何が起ころうとしているのかはわからないが、それがこの方の意志によるものならば、いかなる事でも受けとめようという気持ちになっていた。

 ひんやりした指先が肩に触れたかと思うと、すぐに強い圧力をもってくいこんでくる──その時、扉を叩く音が聞こえた。

 とっさに事態が飲み込めず、水の守護聖の頭と躯は、数秒間静止していた。それはクラヴィスも同じらしく、かなりの間があってから、ようやく大きな溜息と共に手を離した。

「……開いている」

めったにないほど不機嫌な声の返事を受け、書類を手にした侍従が入ってきた。

「失礼いたします。中央医療院からの連絡をお届けに参りました」

一礼して告げた侍従は、いくらか怯えた表情で、部屋の主の返事を待った。

 クラヴィスは黙ったまま、指先を小卓の方に向ける。その意図を察した侍従は、指示された場所に書類を置くと、ためらいながら水の守護聖に向き直った。

「あの、リュミエール様あての書類もここに持っておりますが、今お渡しした方がよろしいでしょうか、それとも執務室にお届けいたしましょうか」

話が自分に向けられるとは予想していなかったので、リュミエールは一瞬戸惑ってから答えた。

「そう……ですね、受け取っておきましょう」

恭しく書類を差し出すと、侍従は足早に退出していった。

 それを見送るともなく見送りながら、水の守護聖は補佐の続きに戻ろうとしたが、先刻まで何をしていたのかが思い出せなかった。手がかりでもないかとクラヴィスを見れは、やはり思い出せないのか、考え込むような表情で双眸を閉じている。

 どうしたらいいかわからないまま彷徨っていたリュミエールの視線は、ふと手元の書類に引き寄せられた。

「クラヴィス様」

驚きと喜びに、思わず声があがる。

「ランディが面会可能になったそうです。それに、私に会いたいと希望している、とも書いてあります」

 またしても長い沈黙の後、闇の守護聖は眼を閉じたまま何かを言おうとして、止めた。その様子を見て、リュミエールはようやく最前の出来事を思い出した。

 たしか相手はこの肩に手をかけ、何かを告げようとしていたところだった。

「すみません、お話の途中でしたのに、別の話をしてしまいました」

 黒髪白皙の面が、静かに横に振られる。

「……話などしていない」

「えっ……」

水の守護聖は、相手を怒らせてしまったかと動揺した。

 だが、双眸を開いたクラヴィスの表情に、怒りは見られなかった。

「医療院に行くのなら、今から行くがいい。ランディの様子が気になるのだろう」

気分を悪くしている響きも、相手を拒んでいる気配もなく、どこか透明感さえ覚える静かな声。

 安堵した水の守護聖は、その言葉に甘える事にした。断る理由もない上に、ちょうどきりも良く、一束の書類を整理しおえたばかりだったのを思い出したのだ。

「ありがとうございます。では、急いで行って参ります」

礼と挨拶の言葉に相手が頷くのを見届けて、リュミエールは歩き出した。

 そうして扉に手をかけた時、水の守護聖はふと背中に視線を感じて振り返った。だが、クラヴィスはすでに机に戻り、書類に集中しているようだった。

(気のせい……でしたか)

リュミエールは、邪魔しないよう静かに廊下に出ると、肩をそっと押さえた。

 そこに残る指の感触に、いつか腕を持って支えられた時を、髪に触れられた時を思い出しながら。利己的な者には不相応な喜びを、あまりに多く得すぎていると、自らを咎めながら。

 それでもなお、心が温かく満たされていくのを、恍惚と恐れのうちに感じながら。




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