水の章・4−31

31.

 ランディが予め知らせておいたのだろう、中央医療院に着いた水の守護聖を、待ち構えていた院長が自ら出迎えた。

 別棟の特別室に案内されながら、院長はランディの状態について簡単に説明した。それによると、どうやら骨折以外には大した怪我もなく、約一日しか経っていないにしては驚くほど速い回復を見せているらしい。

 明るく清潔な廊下を抜け、特別室の大きな扉をノックすると、若々しい声の返事が聞こえる。院長が礼を取って半歩下がったので、リュミエールは軽い会釈を残し、一人で部屋に入った。

「わざわざ来ていただいてすみません、リュミエール様」

機能的ながら優美に装飾された寝台から、少年が半身を起こすのが見えた。傷や打撲の痕が残る面は痛々しかったが、血色も表情も平常のランディのものだった。

 リュミエールはほっと息をつき、少年に微笑みかけた。

「いいえ、あなたの顔が見られて嬉しいですよ。それより気分はどうですか、まだ痛むのですか」

「もう、どこも大丈夫です──あ、折れたところだけは時々痛みますけど、医者からは、明日からでも執務に戻っていいと言われました」

「それは良かったですね」

勧められるがままベッド脇の椅子に腰をおろすと、水の守護聖はランディが話を切り出すのを待った。わざわざ自分を呼び寄せたからには、何か伝えたい事があるのだろう。

 それに応じるように風の守護聖は来客に向き直り、まっすぐな視線で切り出した。

「今度の事ではご迷惑をおかけして、どうもすみませんでした。いずれ他の皆さんにも謝るつもりですが、特にリュミエール様とマルセルには、もう少しで怪我を負わせていたかもしれない所でしたから。後で、マルセルにも謝っておくつもりです」

「怪我……?」

水の守護聖は少し考え、ようやくその可能性に思い当たった。あの時、もし木の枝がもう少し弱かったら、あるいは少年がはずみで崖を蹴ってでもいたら、落ちてきた彼と衝突していたかもしれなかったのだ。

「いいえ、私こそ気が回らず、あなたたちを危険に晒してしまいました。本当ならマルセルを連れて、崖から少し離れていなければならなかったのに」

「リュミエール様は、何も悪くありません。全部俺のせいです!」

叫んだ次の瞬間、風の守護聖は痛そうに胸の下を押さえた。

「ランディ、大丈夫ですか」

リュミエールは急いで立ち上がり、ベッドの端にある呼び鈴を押そうとした。

 だが少年は、必死の表情でそれを止めた。

「平気です、これくらい……お願いですから、人を呼ばないでください」

驚いて見返す水の守護聖の前で、ランディは深く呼吸をし、それからゆっくりと姿勢を戻した。一旦は蒼ざめたその顔色が、早くも元に戻り始めているところを見ると、どうやら無理をしているわけではなさそうだ。それに今の言い方から察すると、何か人払いの必要な話があるのかもしれない。

 リュミエールはしばらく様子を見守り、それから椅子に戻った。

「では、もう少しお話しましょう。もし気分が悪くなったら、すぐに言ってくださいね」

風の守護聖は、その姿勢でできる限りの礼をとってから、改めて話し出した。

「もう一つ、謝らなければならない事があるんです。俺、昨日聖地に戻る時に、崖登り用の装備を忘れてきたのに気づいたのに、取りに戻るのがどうしても嫌で、そのまま登ってしまったんです。今考えると、装備なしなんて絶対に無理なのに、あの時はどうしてもすぐ登らなきゃって、意気地なしじゃないのを証明しなきゃって、それしか考えられなくて……」

(“意気地なし”……!)

崖下で聞いた叫びを、そして昨夜の出来事を思い出し、水の守護聖は思わず肩を震わせた。

 それを見て、ランディもはっとしたように言葉を切った。

「そうか……そうですよね」

ややあって、少年は苦しげな声で続けた。

「今朝ジュリアス様がいらっしゃって、昨夜の集いの事を教えてくださいました。もう、全部わかってしまったんですね。俺がどうして意気地なしって言われたのかも、どんなにバカだったのかも」

「そのような言い方をするものではありません。自分に対しても、他の誰に対しても」

水の守護聖はやわらかな声で、しかしきっぱりと否定した。

「あなたはただ、衝動的に動きすぎてしまっただけです。確かに過ちだったかもしれませんが、そこから学ぶ事ができるなら、もう貶める必要などないはずです」

 先輩の言葉に、ランディは深く頷いた。

「すみません。ジュリアス様にも、同じような事を言われていました。処分はまた後日に決める事になるが、あまり気を重くしないで待つように。罪というよりは過失に近い解釈になるだろうから、と」

「それを聞いて、安心しました。あの方も、あなたが自分を責めすぎるのは、望んでいらっしゃらないのでしょうね」

「はい。でも……」

風の守護聖は、その晴れやかな眉をひそめて続けた。

「実はリュミエール様に来ていただいたのは、謝りたかったのと、もう一つ、教えていただきたい事があったからなんです。あの、昨日の集いで、オスカー様に何かあったんですか」

「どういう事でしょう」

話は光の守護聖から聞いたはずなのに、何を気にしているのだろうと、リュミエールは不審に思った。

「それが、今朝のジュリアス様のご様子がどことなく、オスカー様の話を避けているっていうか、オスカー様の名前が出るたびに、言いにくそうな話し方になられているように見えて……すみません、自分がそんな事を気にする立場じゃないっていうのは、わかっているんですが」

「そうだったのですか」

昨夜のジュリアスの表情が思い出され、水の守護聖は心中で溜息をついた。あの様子からすると、少年はまだオスカーの処分について教えられていないのかもしれない。

「やっぱり、何かあったんですね。教えていただけませんか」

促されてリュミエールは、重い口を開いた。いずれにしろ、誰かが教えなければならない事だ。

「オスカーは当面、試験と執務のための外出を除き、謹慎となりました。ジュリアス様の補佐も、その間は許されないそうです」

「どうして……!」

再び叫びかけて、ランディは肋骨を庇うように声を低めた。どうやら今度は、痛みが走る事はなかったようだ。

「なぜ、オスカー様が罰を受けなければならないんですか。あの方には、何の落ち度もないのに」

「あなたに対して不適当な言葉を使い、今回の事件の原因を作ったという事のようです。正直に言って、私もこの処分には疑問が残りましたが」

「そんな」

押し殺した声が、動揺に震えている。

「俺なんかのせいで、オスカー様が……」

「ランディ」

なだめるように呼びかけると、少年は深刻な表情で言った。

「ジュリアス様だって、大変な事になってしまうはずです。前にオスカー様が仰っていたんですが、ジュリアス様のお仕事はどんどん多くなってきていて、いくらお手伝いしても夜中までかかってしまうそうなんです。それを、補佐までやめさせてしまうなんて」

「昨夜オスカーと、それにルヴァ様もそのように仰ったのですが、ジュリアス様のお気持ちは変わりませんでした」

改めてその様子を思い返し、水の守護聖の心にも不安と心配がわきあがってくる。

 重い沈黙に包まれた特別室に、遠くから宮殿の鐘が聞こえてきた。リュミエールはすっかり長居してしまったのに気づき、力づけるように微笑むと、少年に暇を告げた。

「では、私はそろそろ失礼します。元気そうな顔が見られて良かったですよ。ジュリアス様の事なら、きっとあの方なりのお考えがあるのでしょうから、あまり心配しすぎないで、身体を治す事に専念してくださいね」

「無茶なんです」

ランディの口から、こぼれるように呟きが漏れる。

「俺に言えた義理じゃないのはわかってます。でも……無茶です」

そこまで言うと、風の守護聖は我に返ったように来客の顔を見た。

「あ、あの、お時間を割いてきてくださって、どうもありがとうございました」

その面は元気な表情に戻っていたが、どこか翳りを帯びて見えるのは、自分の引き起こした事の重大さを理解したからなのだろう。

 少年がこの経験によって一回り大きく成長するようにと願いながら、水の守護聖は特別室を後にした。




 中央医療院から出ると、リュミエールは頭上を見上げた。吸い込まれそうな青空に純白の雲が映え、昨夜の光の守護聖の、毅然としていながら悲しげな後ろ姿を思い出せる。

(もしかしたら、あの処分は……ジュリアス様ご自身への制裁でもあったのでしょうか)

誰よりも自らに厳しい人の事だ、ありえない話ではないだろう。

 それほどオスカーは、首座の守護聖の信頼と、それに親愛をも得ているようなのだ。本人の言からすると、職務を補佐するのみならず、常に行動を共にし、重要な相談を持ちかけられる事も少なくないようだ。そのような相手を締め出すという事は、仕事に大きな支障をきたすのみならず、精神的にも厳しいものがあるはずに違いない。

(あれほどの繋がりを、私はクラヴィス様との間に、持っているでしょうか……)

ふと思った水の守護聖は、すぐに力なく頭を振った。

 信じてくれていると、頼られていると思う事がないわけではない。しかし、闇の守護聖の心がどこを向いているのかは、さっぱりわからない。好悪で言えば、少なくとも嫌われてはいないようだが、それ以上どこまで近づけているのか、まるで見当がつかないのだ。

 辛い立場にある光と炎の守護聖を思いやりながら、しかしリュミエールは、自分が羨望を覚えているのを認めないではいられなかった。


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