水の章・4−32
32.
そのオスカーが、書類を届けがてら水の執務室を訪ねてきたのは、翌日の事だった。
「さっき俺のところにランディが来て、今回の事で迷惑をかけた、これまでも態度が悪くて申し訳なかったって謝っていったぜ。俺も言いすぎだったと思っていたから、あいつにそう謝ったんだが、また剣を習いに来いって言ってやったら、あいつ、泣きそうになっちまってな。まったく、まだまだ子どもで困るぜ」
「それでは、仲直りできたのですね」
安堵の表情で答えたリュミエールの胸に、ふと小さな疑問が浮んだ。このような事は、オリヴィエも交えた場で話した方がよかったのではないだろうか。それとも、二度手間になるのは承知の上で、それぞれの執務室を訪ねて話すつもりなのだろうか。
しかし、それを口にする前に、来客は次の言葉を発していた。
「まあ、そういう事だ。それから処罰については、ジュリアス様から正式に一週間の謹慎を申し渡されたと言っていた。今日の午後から執務にもどるそうだから、俺と同じように、私用の場合に限られるんだろうが──」
そこで炎の守護聖は、相手に鋭い視線を向けた。
「俺の処罰について、あいつに教えたのは、お前だそうだな」
「ええ。余計な事をしたのなら、謝ります」
「お前が納得していない様子だった、とも言っていたぜ」
一段と低まった声からすると、どうやらオスカーが気にかけているのは後者のようだ。光の守護聖の処断に異議を唱えるなど、もっての外だと考えているのだろう。
今回の事で傷ついているであろう同僚に、これ以上不愉快な思いをさせたくはないが、ここで下手な言い訳をしたところで、かえって話がこじれてしまいそうな気がする。
水の守護聖は、覚悟を決めて頷いた。
「あなたへの処罰が重過ぎるのではないかと考えているのは、事実です」
「……お前」
氷の色をした瞳が、いつにない怒りに燃え立っている。
「ジュリアス様がよくお考えの上、ご自身の負担が重くなるのも覚悟で下された判断を、間違いだというのか」
「いえ、そこまでは……」
「お前のような奴がいるから、あの方のご心労が増えるんだ。ランディまで、俺と同じ罰では申し訳ないなんて言い出すし──まったく、どいつもこいつも、ジュリアス様の事を何一つわかっちゃいない!」
憤りに満ちた声音の中で、光の守護聖の呼称だけがひときわ丁重に発されているのにリュミエールは気づいた。自分にも覚えがある。どれほど激した心の中にあっても変わらず澄み輝き、同時に影を落とし続ける、見失うべくもない唯一の存在。
“──同じなんだよ、私たち三人は”
オリヴィエの言葉と共に、昨日考えた事が思い出される。相手の慰めになればと願いながら、水の守護聖はそれを口にしてみた。
「オスカー、あれはもしかしたら、あの方ご自身への罰でもあるのではないでしょうか」
「何……だと」
まったく予期していなかったのだろう、炎の守護聖は息も止まりそうなほどの驚きをみせた。
「お仕事が大変になるのももちろんですが、あなたを遠ざけるという、その事自体が、ジュリアス様の自らに課した処罰なのではないかと……私には、そのように思えるのです」
「どういう事だ、それは」
問いただすような言い方とは裏腹に、オスカーの面には既に、苦悩と甘美さとが入り混じった表情が現れ始めていた。同僚の解釈が、光の守護聖からの一方ならぬ好意を前提としたものだと気づいたのだろう。
「そんなはずが……いや、もしそれが本当だとしたら……」
低い呟きを漏らしながら、青年は心中にその可能性を探り始めたようだったが、間もなく自分のいる場所に気づいたらしく、慌てたように退出の言葉を口にした。
「ああ、話はこれだけだ。じゃあな」
「待ってください」
リュミエールは、先刻から気になっていた事を問いただした。
「この話はもう、オリヴィエに伝えてあるのですか。しばらく情報交換もしていませんし、三人で集まって話したほうが良かったのではと思うのですが」
オスカーの表情がさっと翳るのに、水の守護聖は気づいた。
「俺もそう思って、ここに来る前に夢の執務室に行ったんだが、オリヴィエの奴、情報交換なんて何の役にも立たないなんて言い出すんだぜ。集まる気もなきゃ、話も聞こうとしない。つい昨日お節介を焼きにきた男が──あいつも、お前から俺の処罰の事を聞いたんだってな──今日はいきなりシニカルぶりやがって、何を考えてるのか、さっぱりわからないぜ」
「あの人が、そのような事を……?」
およそオリヴィエらしくないと言いかけて、リュミエールは途中で唇を止めた。
前の情報交換の時、そろそろ止める潮時かもしれない、こんな事をしても何にもならないと言っていたのは、誰だっただろうか。一昨夜の集いを、当人いわく“物事をおっくうがるクセ”のために途中で抜けたのは、いったい誰だったのだろうか。
(オリヴィエ……あなたまで、どうかしてしまったのですか)
不安に襲われそうになった水の守護聖は、しかし次の瞬間、昨日の朝の出来事を思い出した。集いのなりゆきを聞くためにこの部屋にやってきたのも、そして、罪滅ぼしなどと言いながらオスカーを慰めにいったのも、紛れもなくオリヴィエその人だったではないか。
「きっと、あの人にも事情があるのでしょう。後で様子を見に行ってみます」
「そうか。何かわかったら教えてくれ」
答えながら、オスカーはもう他の事を考え始めている様子だった。オリヴィエの態度が気になりはするものの、光の守護聖からどれほどの好意を向けられているかという問題が大きすぎて、どうしても意識がそちらに向いてしまうのだろう。
そのまま執務室を出て行った同僚を見送ると、リュミエールはすぐ夢の守護聖を訪ねる事にした。