水の章・4−33

33.

 自室を出たリュミエールは、大窓越しの陽光に満たされた聖殿の廊下を、中央階段へと向かった。

 間もなく大きな階段が見えてくると、金の髪の少女がその半ば辺りを上ってくるのが視界に入った。珍しく暗い表情をでうつむき加減に進んでいるのは、考え事でもしているからだろうか。

 邪魔はしたくなかったが、このままでは足を踏み外しかねないと思い、水の守護聖は急いで声をかけた。

「こんにちは、アンジェリーク」

「あ、リュミエール様……」

少女が立ち止まっている間に、リュミエールは相手と同じ段まで下りていった。

「沈んだ顔をしていましたが、何か心配事でもあるのですか」

その言葉に緊張が解けたのだろうか、アンジェリークの大きな瞳には、突然大粒の涙が浮びだした。

「私──私、ここ二三日の間、とても変な胸騒ぎがしていたんです。そうしたらさっき、侍従さんがランディ様の骨折の事を教えてくれたので、もうびっくりして、それから、何だか怖くなってきて……」

「そうだったのですか」

水の守護聖は、驚きと強い後悔とを覚えながら答えた。

 女王のサクリアが、この少女の裡で目覚め始めている。試験終盤という時期を考えれば当然かもしれないが、恐らくはそれが守護聖の異変を感知し、胸騒ぎを引き起こしていたのだろう。

 だが当人にしてみれば、女王試験という特殊な状況下でいきなり未知の感覚に襲われ、さらに追い討ちをかけるように、守護聖の怪我という異常事態を知らされたのだ。それらの関連に気づいていようといまいと、衝撃も不安も大きいに違いない。

 ランディの事件が起きた時に、もっと気を回しておくべきだった。すぐに女王候補たちのもとに向かい──ロザリアにも同じ事が起きている可能性が高い──説明していたら、このように胸を痛ませる事もなかっただろう。

 胸の痛む思いで、リュミエールは謝った。

「すみませんでした、アンジェリーク。あなたがそれほど心細く思っているのに気づかなくて」

「リュミエール様……」

泣くまいと堪えながら頭を振る姿がいじらしく、リュミエールは妹を力づけているような気持ちになって、その細い肩に手を置いた。

「心配しないでください。その胸騒ぎは女王候補の持つ力のせいでしょうし、ランディも今日の午後から執務に戻れるそうですから。けれど、もしこれから気がかりな事があったら、どうか遠慮なく相談してくださいね」

「……は、はい」

涙をこぼしそうになったのが恥ずかしいのか、頬を染めて答える女王候補に微笑みかけると、水の守護聖はそっと手を下ろした。

「もしロザリアが同じように悩んでいたら、今の事を教えてあげてください。私たちはいつでも、あなた方の力になるつもりですから」

「あ……はい、ありがとうございます」

少女はなぜか束の間、拍子抜けしたような表情を見せたが、すぐ気を取り直したように答えた。

 元気そうに階段を上っていくアンジェリークを見送っていると、リュミエールはふと背中に視線を感じたように思った。

 振り返ると階段の下に、見慣れた黒衣長身の姿が立っている。

「クラヴィス様」

速足で階段を下りていった水の守護聖は、相手が険しい表情をしているのに気づいた。もしかしたら、アンジェリークが泣きそうになっていたのが見えたのかもしれない。直接の原因が別にあるとはいえ、自分の気が回らなかったせいで余計に少女を悩ませたのだから、責められてもしかたないだろう。

「申し訳ありません。配慮が足りませんでした」

「配慮……だと」

低い声が、憤りに近い響きを帯びている。そこまであの少女を大切に思っているのかと驚きながら、そして、なぜか心が重くなるのを感じながら、リュミエールは力ない声で続けた。

「アンジェリークは、ランディの事故をおぼろげに感知していたようなのです。女王のサクリアが作用したのだろうと思いますが、彼女自身にとっては不吉な予感が的中した事が、かなりの衝撃だったようです」

厳しい表情は変わらない。この方に、ここまで思いやってもらっているとは、アンジェリークも気づいていないだろう。心のどこかで反発に近い感情を覚えながら、リュミエールは説明を続けた。

「女王候補である以上、そのような予感がありえると予想すべきでした。事故の後すぐに様子を見に行っていれば、あのように辛い思いをさせずにすんだでしょうに……私の気が回らなかったとしか、言いようがありません」

 短い沈黙が流れ、闇の守護聖はその両眼を閉じると、溜息と共に答えた。

「……そういう事か」

微かに安堵の表れた声に、続く言葉はない。アンジェリークを気にかけているのなら、叱責されるか、せめてもう少し細かい点を問われそうなものだが、その様子もない。

 いつもながら心中の量りがたい方だと思いながら、水の守護聖は付け加えた。

「後で、ディア様にもお伝えしておくつもりです。ロザリアにも、同じ事が起きているかもしれませんから」

「お前は……」

クラヴィスが瞼を上げると、めったに表情の出ないその双眸が、微かに柔らかさを帯びているのが見えた。

「……本当に、誰にでも優しいのだな」

感心しながらも労わっているような、それでいてどこか寂しげな、声。

 陶然と呆然とが相半ばした気持ちで見返すリュミエールの前で、闇の守護聖はおもむろに視線を逸らし、階段を上り始めた。丈高い姿がゆっくりと視界の中を上昇し、去っていく。その後姿がなぜか儚く感じられ、水の守護聖は一瞬、追いすがりたい衝動に駆られた。

(何を考えているのでしょう、私は……)

すぐ我に返ると、自らを制すように頭を振る。

 たかが異なる階に向かうというだけで離れがたく感じるなど、どうかしているとしか思われない。最近起きている出来事の数々に、気持ちが弱くなってしまったのだろうか。

 リュミエールは気を引き締めるように背筋を伸ばし、改めて夢の執務室へと歩き出した。


水の章4−34へ


ナイトライト・サロンへ


水の章4−32へ