水の章・4−34
34.
扉を叩くと、しばらく間が空いてから返事が聞こえてきた。
「……どうぞ」
夢の守護聖本人の声に間違いはないが、その口調は、聞いた事がないほど気だるいものだった。
急いで部屋に入ったリュミエールは、そこがいつもと雰囲気を異にしているのに気づいた。人を惹きつけずにおかないような、オリヴィエ独特の華やかな活気が、影を潜めている。調度や内装が変わったわけではないが、いや、同じだからこそ、その違いがはっきりと感じられるのだ。
執務机に近づくと、様々な形や大きさの瓶が並べられているのが見えた。いくつかはふたが開けられて、ほのかに人工的な匂いを漂わせている。
「お化粧品ですか。ずいぶんたくさん出したものですね」
「……まあね」
むっつりと答えながら、部屋の主は視線を上げた。つい昨日まで表情豊かだった美しい面が、疲れたように輪郭を曖昧にしているのに水の守護聖は驚いた。
「何かあったのですか、オリヴィエ」
問われた青年が、反射的に壁際に眼を走らせる。つられてリュミエールもそちらを見ようとしたが、夢の守護聖が突然大きな声と手振りで話し出したので、慌てて視線を戻した。
「べーつーに。それより見てよ、この色と質感。ベースコートからあれこれ試して、二時間もかかったんだから!」
両手をひらひらさせて、美しく塗られたマニキュアを披露する。
「労作だけあって綺麗ですね」
リュミエールは素直に感想を答えたが、ふと爪の周囲が赤くなっているのに気づいた。
「けれどオリヴィエ、指先が……」
「ああ、これ。低刺激のリムーバーを使ってるんだけど、さすがに何十回も落としてると、荒れちゃうんだよね。イラっときて、やすりで削り落とした事もあったし」
軽い口調の中に、どこか暗い響きが感じられるのは、気のせいだろうか。
「あまり、根を詰めない方がいいですよ」
「けどねえ、実はこの色も、やっぱり気に食わないんだよね」
瓶の一つを引き寄せながら言うと、溶剤が滲みこませてあるらしいコットンを手に取り、激しく爪をこすり始める。
その様子にただならぬものを感じて、水の守護聖は一瞬たじろいだが、自分が知らないだけでこれが一般的なやり方なのかもしれないと思い直し、改めて部屋の主に話しかけた。
「ところで、オスカーから聞いたかもしれませんが、ランディが今日の午後から執務に戻るそうですよ。二人の行き違いも何とか解決したそうですし、一安心ですね」
夢の守護聖は、聞こえていないかのように無反応のまま、今度はやすりで爪の形を整え始めた。戸惑ったリュミエールがもう一度声をかけようとした時、ようやく部屋の主は不機嫌そうに視線を上げた。
「いちいち、そんな事教えてくれなくていいから」
「えっ。でも、オリヴィエ……」
「いいって言ってるでしょ」
苛立った様子で遮ると、オリヴィエは一つ息をついて続けた。
「結局、他人は他人なんだよ。こっちがどんなに気にかけていてもね。そんな事で無駄な気力を使うんだったら、自分が楽しい事をやってた方がいいじゃない」
そう言ったきり、夢の守護聖は再び爪にかかりきりになってしまう。
うつむいたその美しい面に、疲れと寂しげな表情が影を落としている。たしか以前、この人が情報交換を止める潮時ではないかと言い出した時にも、このような表情をしていたような気がするが、影は今のほうがより濃く、強く射しているように見える。
(オリヴィエ……)
これが彼の“楽しい事”なのだろうか。これによって気持ちが晴れ、疲れが癒えるのだろうか。そうならばいいのだが。そうして元気を取り戻し、普段どおりの夢の守護聖に戻ってくれたらいいのだが。
邪魔をしないよう侍従に退出を告げ、扉に向かおうとした水の守護聖は、ふと壁際に何かが落ちているのに気づいた。先刻、この部屋の主が眼を走らせ、かつ自分に見せまいとしていたように思われる、場所。
相手が別の事に集中しているとはいえ、あからさまに見るのには気後れを覚えたので、リュミエールは一瞬だけそちらに視線を向けた。黄ばんだ紙の束のような物が、いくつか落ちている。見た事のある物だとは思うが、それが何なのか、とっさに思い出せない。
はっきり見たわけでもないその光景に、水の守護聖はなぜか、言い知れぬ不穏さを感じていた。