水の章・4−35

35.

 その夕方も、リュミエールは執務時間終了の鐘を、闇の執務室で聞いた。だが当日分の仕事は、まだ全く終わりそうな気配を見せていない。手にした書類の束と、そして未処理の書類の山を見比べながら、水の守護聖は心中で溜息をついた。

(前よりも、また一段と増えてきている……)

リュミエール自身の仕事も多くなってはいたが、それでも少し無理をすれば早めに終わらせ、こうして補佐に来られる程度に留まっていた。それにひきかえクラヴィスの仕事は、どこまで増え続けるのか見当もつかないのだ。

 不機嫌そうな表情で執務を続けている闇の守護聖をそっと見やると、リュミエールは再び手元の書類に集中し始めた。




 ようやくその日の執務が終わると、クラヴィスは椅子の背もたれに、投げ出すように半身をもたせかけた。相当疲れているのだろう、端正な白皙の面に、室内の闇を吸ったかのように濃い陰影が現れている。

「お疲れ様でした」

書類の束を侍従に渡しながら、水の守護聖は労わりの言葉をかけた。

「宜しかったら、お茶でもお入れいたしましょうか」

「うむ……いや」

闇の守護聖は頷きかけてから、思い直したように言葉を継いだ。

「それより、竪琴を聞かせてくれ」

「かしこまりました。すぐ取ってまいります」

リュミエールは二つ返事で答えると、急いで扉に向かった。




 廊下に出ると、窓の外に見える空が、すっかり宵の色に変わっていた。

(もう、このような時間に……)

遅くなったものだと思いながら歩き出すと、背後から誰かが速足でやってくる気配がした。

 振り返ったところには、両手一杯に書類を抱えた侍従の姿があった。

「あっ、リュミエール様……失礼いたしました」

こちらに気づき、少し手前で立ち止まった姿に、水の守護聖は微笑みかける。

「急いでいるのでしょう。構いませんから、先にお行きなさい」

「はい、ありがとうございます!」

 侍従は感謝の表情で目礼すると、足早にリュミエールを追い越していった。と、入れ替わりに別の侍従が書類を手に現れた。こちらに気づいて一旦足を止め、礼を取ってから、光の執務室に向かっていく。

 どうやら、ジュリアスはまだ執務の真っ只中であるらしい。無理もない、もともと他の守護聖より仕事が多い上に、今は補佐をするオスカーもいないのだから。いくら侍従たちが尽くしてくれるといっても、守護聖としての知識や経験を持つ者の補佐と比べ、できる事はごく限られてしまうだろう。

 だが、オスカーの補佐を断ったいきさつを考えれば、仮に今自分がその役を買って出たところで、とても受け入れてもらえるとは思われない。

(お体に障らなければよいのですが……)

心配に眉を曇らせながら、しかしどうする術もなく、水の守護聖は重い気持ちで自室に戻っていった。




 追加の仕事が届いていないのを確認すると、リュミエールは執務室付きの侍従に労いの言葉をかけて帰らせた。竪琴を手に取ろうとして、ふと視線が、机上の一冊の本に止まる。

 それは、演奏の曲目を増やそうと図書館から借り出しておいた、古い楽譜集だった。読み取るのに支障はなかったが、発行されてから数百年は経っているらしく、紙は黄ばみ、製本も脆くなっている。複写をとって返そうと思いながら、忙しさに紛れてそのままになっていたものだ。

 どうして気になるのだろうと思いながら、ぼんやりと見つめているうちに、記憶が蘇った。夢の執務室で今日、同じような物を目にしたのだった。。

 壁際に落ちていた、幾つもの黄ばんだ紙の束。改めて思い出してみれば、表紙らしい別色の板紙が下から覗いていたような気もする。恐らくあれは、やはり数百年を経た書物が、何か強い衝撃で砕けてしまった姿だったのだろう。

 よほど高い棚の上からでも落ちたか、あるいは、あの位置から考えて──

(まさか……!)

執務机から壁に向かって、力任せに書物を投げつけているオリヴィエの像が、突然脳裏に浮かび上がった。そのような事をする人でないとわかってはいるが、今日会った時の様子を思い出すにつけて、言いようのない不安が心に満ちてくる。

 次の瞬間、リュミエールは部屋を飛び出し、夢の執務室へと急いでいた。


水の章4−36へ


ナイトライト・サロンへ


水の章4−34へ