水の章・4−36


36.

 二階の慌しさと違って、聖殿の一階はひっそりとしていた。侍従の行きかう姿もない広い廊下が、ただ明々と照らし出されている様子は、どこか寂しささえ感じられるほどだ。

 この階に執務室を持つ守護聖は皆、帰ってしまったのかもしれない。何もなく一日が終わったのなら、それに越した事はないのだが。

 そのような事を考えながら、水の守護聖は同僚の部屋をノックした。

「オリヴィエ、まだ残っていますか。リュミエールです」

返事はなかったが、室内から小さな物音が聞こえたような気がした。

「取り込み中でしたらすみませんが、少しだけ顔を見せてもらえませんか」

しばらく待ってみたが、やはり答えは返ってこない。思い切って扉を押してみると、鍵はかかっていないらしく、厚い板が音もなく動きだした。

 すると突然、扉の向こうから鋭い音が近づいてきた。開きかけた戸が内側から押され、元の位置に戻り出したのを見て、リュミエールはそれが、駆けてくる足音だったのに気づいた。

 同時に、悲鳴のような短い声が聞こえてくる。

「うっ……!」

「オリヴィエ、あなたなのですか、何があったのです!」

驚いてかけた言葉に、返答はなかった。ただ、完全に閉まりきっていない扉の隙間越しに、苦しげな息遣いが聞こえてくるだけだった。

「ここを開けてください!」

その声に反発するように、相手は再び戸に力を加えてきた。全身の重みをかけているのか、先ほどより強い力で扉が押し閉められ、掛金をかけようとする音が響く。だが次の瞬間、呻くような声と共に、扉への力がすっと弱まった。

(オリヴィエ!)

不安と心配に駆られたリュミエールは、力任せに戸を押し開いた。

 すぐ目の前に、夢の守護聖がうずくまっている。膝を床につき、両の手を胸に寄せて、ひどい熱でもあるかのように全身を震わせている。

「大丈夫ですか、オリヴィエ」

相手の顔をのぞきこもうとした水の守護聖は、視界に飛び込んだ光景に声をあげた。

「その手……どうしたのです!」

しなやかな白い両手の指先が、全て鮮血に染まっている。その様子からして、骨や肉まで達するような怪我ではなさそうだが、神経の集中する場所だけに、並大抵の痛みではないだろう。

「すぐ手当てしなければ……」

そこまで言いかけて、水の守護聖は躊躇った。設備を考えれば医療院に出向くべきだが、震えるほどの苦痛を覚えている時に、たとえ肩を貸したとしても、果たして歩けるものだろうか。手助けを呼ぼうにも、部屋の主が帰してしまったらしく、執務室には侍従のいる気配もない。

「今、医官を呼びます」

連絡装置のある執務机に向かおうとするリュミエールに、夢の守護聖は怒りの声を投げた。

「止めろ!」

驚いて振り返ると、オリヴィエの端麗な面を、狂気と見まごう激しい自棄と憤りの表情が染め出していた。ただ彼の青い双眸には、それらさえ凌駕するほどの深い悲しみが現れている。リュミエールはこれが、昼間会った時に垣間見えた影の、膨張し暴走した姿なのだと気づいた。

「オリヴィエ……」

「放っておいて……また……直さなきゃ」

何を言っているのかわからず、ただ見返している水の守護聖の前で、オリヴィエはゆっくりと立ち上がった。

「本当、気に食わないよ。この色も……形も……」

同僚の向かっていく執務机の上は、先刻訪れた時より更に多い小瓶で埋め尽くされていた。体を引きずるようにたどり着いた椅子にどさっと腰を下ろすと、物憂げな様子でその一つを取り上げる。

 リュミエールは、弾かれたように机に駆け寄った。

「止めてください、その指に、まだマニキュアを塗るつもりですか!」

叫びながら小瓶をもぎ取ったが、夢の守護聖は意に介さない様子で別の小瓶を手に取った。

「いい色がでなきゃ、落として塗り直すだけ。うまく落ちなきゃ、やすりで……」

オリヴィエが歌うように口にした言葉に、水の守護聖は気が遠くなりそうな衝撃を覚えた。

「まさか……あなたは、あれからずっと……」

何時間もの間、マニキュアを塗っては剥がし続けていたというのだろうか。指先があそこまで傷んでも止めようとせず。

「……あれ?」

念入りに描かれた夢の守護聖の眉が、不審そうにひそめられる。

「どうしたんだろ、開かない……」

小瓶のふたを開こうとする指が、まるで油でも塗ってあるかのように滑るので、苛立っているようだ。

 リュミエールは呆然とその様子を眺めていたが、同僚の指を滑らせているのが彼自身の血なのに気づくと、身震いと共に我に返った。

「もう、止めてください!」

飛びつくように腕を押さえると、相手は意外なほどの力で抵抗してきた。もがく手足が机上の小物をなぎ倒し、あるいは吹き飛ばしていく。このままもみ合いを続けていたら、オリヴィエはまた怪我をしてしまうかもしれない。

 開いたままになっている扉に向かって、水の守護聖は叫んだ。

「誰か来てください、誰か!」


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