水の章・4−37


37.

 何度か叫び続けているうちに、宮殿付きの侍従が廊下から入ってきた。

「どうかなさいました……」

言いかけた声が途中で止まる。無理もない、年少でもない守護聖同士が、片や相手の自由を奪い、片や逃れようと真剣に相対している光景など、見た事もなければ想像した事もなかっただろうから。

 水の守護聖はその姿勢のまま、努めて平静な声で言った。

「医官を呼んで下さい。オリヴィエが手に怪我をして、あの……取り乱しているようなので」

「よけいな事をするな!」

夢の守護聖の剣幕に侍従は一瞬ひるんだようだったが、すぐにリュミエールに目礼すると、執務室を走り出て行った。

 もがき続ける同僚をなおも押さえつけながら、どれほどの時間がたったのだろうか、ようやく医官と助手、それに先刻の侍従が執務室に駆けつけてきた。

 医官はオリヴィエの手にさっと視線を走らせると、落ち着かせるようにゆっくり話しかけた。

「まず消毒をいたしましょう。少し傷みますが、ご容赦ください」

「いいから出て行け! こんな色で我慢できるものか──」

言うなり夢の守護聖は、安堵に気を抜いていたリュミエールの腕を強引に解いたが、弾みで机に手が当たり、痛みに身を折ってうずくまってしまった。

 すかさず助手と侍従が、その両肩をしっかりと捉える。二人がかりで押さえられて、さすがに患者が抵抗できなくなったのを確認すると、医官が小声で尋ねてきた。

「オリヴィエ様は、何の話をされているのですか」

リュミエールも、声を低めて答えた。

「昼間からずっと、マニキュアを塗っては、やすりや薬品で落とし続けていたようなのです。あのようになっても、まだ色が気に入らない、塗りなおすといって聞かなくて……」

医官は頷くと、オリヴィエからは見えないように小型の注射器を取り出した。

「爪と皮膚の欠損に加え、いくらか錯乱状態に陥っておられるようにお見受けいたします。このままでは、更に深刻な怪我をされる危険がありますので、宜しければ鎮静剤を使いたいのですが」

「……わかりました」

水の守護聖の承諾を得ると、医官は助手にオリヴィエの袖を捲らせ──執務服が袖なしに近いデザインだったのが幸いだった──素早く注射を施した。

「何を……!」

夢の守護聖はなおも抵抗していたが、薬が効いていくにつれて、その動きは散漫になっていった。

「もっと綺麗に……こんな色じゃ……なく……」

眠気に耐えられない人のように、声や眼差しから力が抜けていく。

 しばらく様子を見ていた医官が、侍従に向き直って尋ねた。

「控えの間に、横になれる場所はありますか」

「はい、仮眠用のソファが」

「まずそちらにお移しして、それから治療に取り掛かりましょう」

意識朦朧としている夢の守護聖を、助手と侍従が両側から支えて、ゆっくりと歩かせ始めた。

 その後について行こうとしたリュミエールに、医官が声をかける。

「差し出がましいようですが、今は付き添われるよりも、ディア様にご報告に行かれた方が宜しいのではないでしょうか」

水の守護聖はしばし迷ってから、その提案を受け入れた。オリヴィエが心配ではあったが、あのような状態では、自分が側にいたところで何の慰めにもならないだろう。それどころか、彼の邪魔をした者として認識され、せっかく鎮まってきた神経を逆なでしてしまうかもしれない。

「わかりました。オリヴィエの事、くれぐれも頼みましたよ」

「かしこまりました」

重々しく答える医官に背を向け、水の守護聖は廊下へと歩き出した。




 ディアがまだ私室に下がっていないようにと、祈るような気持ちでリュミエールは補佐官室の扉を叩いた。

 幸いにも当人の声と共に扉が開くと、水の守護聖は撫子色に彩られた部屋に入っていった。夜に訪れるのが初めてだからだろうか、いつもの優美な雰囲気に、どこか寂しげな影が落ちているように感じられる。

「このような時間にどうしたのですか、リュミエール」

出迎えたディアの柔和な面にも、疲れの色が隠せないようだ。夜まで補佐官室に残っているくらいだから、この人もきっと多忙なのだろう。

「はい、実は──」

一連の出来事を伝えると、補佐官の双眸が、驚きと心痛の形に見開かれた。

「まさか、オリヴィエにまで……あの人がそのように心乱れていたとは、少しも気づきませんでした」

蒼ざめて呟かれた言葉に、水の守護聖も暗い気持ちで頷く。

「私もです。昼間会った時に、もっと気をつけていれば良かったのですが」

「いいえ、守護聖たちを見守るのは私の仕事です。あなたは、充分すぎるほど務めを果たしていると思いますよ。ただでさえ執務が忙しい上に、クラヴィスの補佐までしているのですから」

 リュミエールは、全身から血が引いていくのを感じた。闇の守護聖に演奏を請われていたのを、今の今まで忘れていたのだ。執務が終わってすぐに楽器を取りに戻り、そこから直接オリヴィエの部屋に行ってしまったのだから、いったいどれほどの時間、待たせているのだろう。

 尋常ならぬ顔色になっていたのか、補佐官が労わるように声をかけてきた。

「だいぶ疲れているようですね」

「いえ、私は……」

躊躇う水の守護聖に、ディアはにっこりと微笑んでみせる。優しさの中にも強さと度量の現れたその表情に、リュミエールはこの女性が女王補佐官である事を、感銘と共に改めて認識させられた。

「あなたはもう、するべき事をしてくれました。オリヴィエの事は私に任せて、今日は下がりなさい」

返す言葉も見つけられず、水の守護聖はただ篤く礼を取るばかりだった。


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