水の章・4−38


38.

 補佐官室を退出したリュミエールは、駆けださんばかりの勢いで闇の執務室に向かった。竪琴を取りに行くのも後に回し、ただ少しでも早く謝りたいという一心で、目指す部屋へまっしぐらに進んでいった。

 だが、厚い扉を叩こうとした瞬間、それは向こう側から開かれた。

「……リュミエール様?」

姿を現したのは、闇の執務室付きの侍従だった。

「クラヴィス様は」

嫌な予感を覚えながら尋ねると、侍従は申し訳なさそうに答えた。

「少し前にお帰りになりました。私は片付けと戸締りに残っておりましたので」

リュミエールは、眼の前が真っ暗になったような気がした。

 帰ってしまわれた。そこまで機嫌を損ねられていたのだ。少しでもお疲れが取れたらと思って演奏を引き受けたのに、かえってあの方を蔑ろにし、お心を傷つけてしまった。

「あの、どうかなさいましたか」

侍従の声が、遠いこだまのように聞こえてくる。

「何でもありません。ありがとう」

ほとんど反射的に返した言葉だったが、侍従はほっとしたように一礼して廊下を去っていった。

 その後ろ姿に、闇の守護聖が重なって見える。追いかけたかったのだ、階段を上っていく黒衣の背を。なぜか消えゆく幻のように見えた、あの方を。

(消えて……いく)

あの方が。あの方のいる世界が。当然のように側にあった幸せが、これまで培ってきたものが、次々に壊れていく。変わらないと思ってきたものが、あまりにも儚く崩れ去ってしまう。聖地から平穏な空気が消えてしまったように、同輩たちが温かな絆を見失ったように──

 自らの裡に空洞が広がっていくのを覚えながら、水の守護聖は扉の前で立ち尽くしていた。




「そこで、何をしているのだ」

物思いから醒めきれず、緩慢な動作で振り返ったリュミエールの眼に、燦然と輝く金色が飛び込んできた。

 とっさに返事が出てこない様子を見て、首座の守護聖は険しい表情になった。

「口も聞けぬほど疲れるまで、クラヴィスの補佐をさせられていたのか。まったく、あやつにも困ったものだ」

一言注意しなければと思ったのか、ジュリアスは水の守護聖の傍らまでやってくると、厚い扉を叩きだした。

 それを見てようやく我に返ったリュミエールが、慌てて答える。

「いいえ、クラヴィス様はもうお帰りになりました。今日の分のお仕事も、ずっと前に終わっています」

光の守護聖は不審そうな表情で見返してきたが、室内から反応がないのに気づくと、何かを思い出したように手を下ろした。

「そうか、お前はオリヴィエの部屋にいたのだったな」

ようやく執務が終わり、部屋から出てきたばかりのように見えるこの方が、なぜ知っているのだろうかと、リュミエールは一瞬眼を見開いたが、すぐにその理由に思い当たった。

「ディア様から連絡を受けられたのですね。あの……オリヴィエは大丈夫でしょうか」

「先ほど部屋に届いた通信によると、怪我も大事無く、鎮静剤のせいでよく寝ているそうだ。自分が付き添うから今日は休ませてやってくれと頼まれたので、様子を見に行くのは明日にするつもりだが」

「そうですか。ディア様が付き添ってくださるのなら、ひとまずは安心してですね」

ほっとしたように言う水の守護聖に、ジュリアスは厳しくも慈しみ深い眼差しで頷いた。

「お前もいろいろ大変だったようだな。早く帰って休むがいい」

「はい、失礼いたします」

一礼すると、リュミエールは自室に向かって歩き出した。




 光の守護聖に背を向け、一人廊下を進んでいくと、悲しみと喪失感が再び心を覆い始めた。

 今歩いているこの場所を、先刻は竪琴を取りに行くために進んでいたのだ。すぐ闇の執務室に戻るつもりで。

 オリヴィエの部屋に行ったのが間違いだったとは思わないが、決して短いとはいえない時間、連絡もなくあの方を待たせてしまったのは、どう考えても自分の落ち度だ。だからクラヴィス様は、帰ってしまわれた。黙って、言付けも残さずに、手の届かないところに遠ざかり消えていくように、背を向けて去ってしまわれたのだ。

 胸に空いた空洞に、恐ろしい記憶の断片が、嵐のように渦巻きながら蘇ってくる。オリヴィエの指先から流れる血、意識を失ったランディの蒼い顔、弱さを罵るオスカーの言葉、マルセルとゼフェルの異様な拘り、ジュリアスの冷たいまでに潔癖な態度、ルヴァの不可解な行動と表情。

 気心が知れていたはずの同僚たちが、見た事もない表情で、彼らとは思われない言動で、自身や周囲を傷つけていく。まっすぐ健やかに育っていると思っていた年少者たちが、病んでいるかのように何かにとりつかれ、常軌を逸した行動をとっていく。その間にも年長者たちは、隠し続けている何事かのために苦悩し、消耗し続けていく。

 泣きたいほど途方にくれながら、叫びそうなほどの悲しみに襲われながら、それでもずっと、ぎりぎりのところで自分を保ってきた。落ち着いて、理性的に考えるように心がけて、誰もこれ以上傷つかないようにと力を尽くしてきたつもりだった。

(けれど……もう……)

気力など、どこにも残ってはいない。流されても沈んでも、抗う力など湧いてこない。どれほど苦痛であったとしても、ただ見つめているしかできない。何もかもが失われていくのを。人が壊れていくのを。

 誰よりも大切に思ってきた方は、去ってしまった。側に居られるだけで無上の喜びをもたらしてくれる唯一の存在が、失われてしまった……




 半ば朦朧としながら、躯の記憶のみに動かされて自室にたどり着くと、リュミエールは機械的に扉を開いた。

 正面に、人影が見える。

「あ……」

水の守護聖の唇から、喘ぐような声が漏れた。

 自分の眼に映るものが、信じられなかった。闇の守護聖がこちらを向いて立っているという、その事が理解できなかった。灯りの下で艶めく黒髪、なおも漆黒の長衣、いつものように表情の読み取れない白皙の面、何もかもが現実離れして見えた。

 ただ幻のように、その人の香りが立ち込めている。その香りが、幻ではないと教えてくれる。

「クラ……」

咎める様子もなくこちらを見つめる姿に、その眼差しに、リュミエールは痺れていた意識が元に戻っていくのを感じていた。

「クラヴィス……様……」

帰ってはいなかった。闇の執務室を出てから、ずっとここで待っていて下さった。

 おぼつかない足取りで一歩進むごとに、心が安堵に洗われ、喜びに染まっていく。近づいてくる白い面差しが、長い腕が、大きな手が、この上なく恋しく慕わしい。本当に待っていて下さったのだと、喪失感の見せるまやかしではなく、本当にここにいらっしゃるのだと、一秒でも早く確かめたい。

 目の前まで来ているのに、焦れば焦るほど足がもつれていく。リュミエールはもどかしさのあまり、倒れこむようにクラヴィスの胸に身を投げた。



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