水の章・4−39


39.

 積もり続けた想いと心労が、まるで堰を切ったように噴き出している事にも、それが酔いのように感情を不安定にし、意識を朦朧とさせている事にも、リュミエールは気づいていなかった。

 執務机の前に立つクラヴィスに身を預け、陶然として両眼を閉ざす。

 抱きついた腕に、肩に胸に、紛れもないその人の存在が伝わってくる。髪ごしに額に当たる感触が、永い間見つめてきた端正な面の輪郭と、寸分たがわず重なっている。相手がここにいるという、ただそれだけの事が、息の止まりそうなほど嬉しい。二人の間に築いてきた絆が──たとえ細く頼りないものだとしても──断たれていなかった事が、涙がにじむほどの安堵をもたらしてくる。

 夢見心地のまま、リュミエールはふと相手の顔を見たいという思いに駆られ、少しだけ躯を離そうとしたが、叶わなかった。相手の腕がいつの間にか自分の背に回り、強く抱きしめていたのだ。

(クラヴィス様……?)

熱のこもった圧迫に、水の守護聖は身を震わせた。瞬間、心が通じたのかと──自分と同じくらい強い気持ちを、相手もまた寄せてくれているのかと思ったのだ。

 だが拘束はすぐに緩み、間もなくリュミエールの背には何の感触も伝わってこなくなった。そうなると急に、喜びが不安に変わってくる。背中の寒さが意識の一部を覚醒させ、そこに新たな考えが浮んでくる。

 もしかしたら自分は、相当に弱った様子で部屋に入っていったのかもしれない。それを突き放す事もできず、この方はただ、倒れないようにと抱きとめていて下さったのではないか。そうだ、何を思い違いしていたのだろう、前にも同じような事を経験していたというのに。目の前に弱った者がいれば、黙って必要な助けをお与えになる、クラヴィス様はそのような方なのだ。特別な気持ちなど、必要も関係もなく。

(お優しい……のですね、クラヴィス様……)

先刻とは違う苦い涙が、瞼の奥からにじんでくる。何を動揺しているのだろう。助けてもらったというのに、この恩知らずな失望感は、いったい何なのだろう。

 正体の知れない想いに打ちひしがれながら、水の守護聖は今度こそ身を離すと、うなだれたままその場に立ち尽くした。




 沈黙の時間がどれほど過ぎたのだろう、低い声が、不意に耳に届いた。

「……帰るぞ」

驚いて顔を上げたリュミエールは、相変わらず表情の読み取れない白面が、視線をそらすように扉に向けられるのを見た。

 丈高い姿が、おもむろに歩き出す。理由の分からない悲しみに胸を塞がれたまま、水の守護聖もそれにつき従った。

 扉を開く闇の守護聖を眺めていると、ふと胸に小さな違和感が浮かんできた。扉が閉まっているのが、意外な気がしたのだ。無我夢中で部屋に走りこんできたはずだが、いつの間に閉めたのだろう。入室時に、無意識に閉めていたのだろうか。

 ぼんやり考えながら執務室を出ると、廊下は思いがけなく暗くなっていた。どうやら執務室にいる間に、照明が落とされていたようだ。

 水の守護聖は、常夜灯と手の感覚を頼りに扉を施錠し、再び黒衣の姿を追って階段に向かった。




 一階に着いたところで、クラヴィスが立ち止まった。

「あれは……?」

横に向けられた視線の先、薄暗い廊下の床に、大きな四辺形の光が落ちている。どこかの執務室にまだ照明がついていて、その扉が開け放されているらしい。

 闇の守護聖はしばらく躊躇っているようだったが、やがてそちらへと歩き出した。

 後についていきながら、水の守護聖は自分たちが向かっているのが夢の執務室なのに気づいた。オリヴィエが回復して戻ってきたにしては早すぎるが、あの侍従が片付けでもしているのだろうか。

 扉口まで来て、二人の守護聖は足を止めた。おびただしい数の小瓶が並べられ、あるいは倒れ、床に散らばっている執務机の傍らに、一人の男が立っているのが見えた。

(ルヴァ様……)

柔和な面差しの横顔に、声をかけるのも憚られるほど悲しげな表情が浮んでいる。うつむき加減な視線を追ったリュミエールは、そこに“あの紙束”が落ちているのに気づいた。

 眼を見開く水の守護聖の前で、クラヴィスが呼びかける。

「ルヴァ」

聞こえたのか聞こえなかったのか、地の守護聖は何の反応も示さない。

「どうしたのだ、ルヴァ」

再度声をかけられて、ようやくルヴァはゆっくりと二人の方を見た。

「あー……ええ、行ってみたんですが、会えませんでした。それで、ここに来てみたんですよ」

上の空で言っているような返事だったが、リュミエールには何となく事情が察せられた。

「ディア様から連絡を受けて、医療院に行かれたのですね。けれど、オリヴィエが眠っていたので面会できず、少しでも事情がわかればと、こちらに足を運ばれた……」

 誰とも視線を合わせないまま、それでも地の守護聖が頷いたのを見て、クラヴィスが問いかけてきた。

「リュミエール、何があった。お前は何を知っている」

 そこで水の守護聖は、竪琴を取りに戻ってからの一部始終を話した。そうしているうちに、自分が言わなければならなかった事が思い出されてきた。

「……そのようなわけで、クラヴィス様にはご迷惑をおかけしてしまいました。連絡もせずに長い時間をお待たせしてしまって、本当に申し訳ありません」

 返事の代わりに、闇の守護聖は長い息をついた。黒い眉は顰められ、白い眉間には濃い一筋の影が射している。だが、その眼差しは不快感というよりむしろ──リュミエールは、またしても思い違いではないかと自らを疑わずにいられなかった──慈しみゆえの憂いを湛えているように見えた。

 クラヴィスが、何かを言おうとするように唇を開きかける。しかし声の出る前に、地の守護聖が動き出していた。やにわに紙束を集め、胸にかき抱くと、決然とした足取りで扉に向かって歩き出したのだ。

「どうした、ルヴァ!」

急変した態度に驚いたのだろう、闇の守護聖が珍しく声をあげる。

 知を司る青年はこちらを向いたが、その視線は相変わらず遠くを彷徨っているようだった。

「私は……間違えていたようです」

茫洋とした眼差しの底に、熱に浮かされたような輝きが垣間見えている。

「危険を避け続ける事こそが、この窮地を乗り越える唯一の道だと思ってきましたが、そうではなかった。ただ自分が可愛かっただけなんです──あの人を、こんなに傷つけてしまうなんて!」

 聞いた事もない強い口調に、リュミエールは恐怖に近い感情を覚えた。いつも温厚で思慮深いこの人が、何と激しく自らを責めているのだろう。

「もう逃げません。これからは、自分にできる事をするつもりです。できる方法で、できる限りの事を」

掠れた声で続けると、ルヴァは機械的に会釈をし、大股に部屋を出て行った。

「ルヴァ……早まるなよ」

背後から掛けられたクラヴィスの声も、その耳には届いていないようだった。



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