水の章・4−40
40.
地の守護聖の姿が見えなくなると、クラヴィスもまた廊下に出ていった。
リュミエールは急いで照明を切って扉を閉め、その後を追った。それほど先に行ってしまったわけでもないのに、心に焦りが生じている。前を行く黒衣の姿に、早く近づきたい。少しでも遠ざかってしまうのが、辛くてたまらない。
だが追いついてみると、眼の前にいる人は、とても手の届かない所にいるように感じられた。黒髪の間から垣間見える白面の、そのいつもながらの無表情さまでもが、矢のように心に突き刺さってくる。こうして付き従っている自分を、この方はどうお思いなのだろう。僅かでも役に立つと、あるいは迷惑だと、それとも──
(気づいてすらいらっしゃらない……その程度の存在でしかないのかも……しれない)
ふと気づくと、闇の守護聖との距離が再び開きかけていた。小走りになって追いながら、リュミエールは頭を振った。暗い考えに気を取られ、足が止まっていたようだ。今までは、少しでも助けになればと望むだけで、こんな事など思ってもみなかったのに。
先刻、束の間だが抱いてしまった希望への、これは報いなのだろうか。大切に思われていると、特別な存在だなどと勘違いしてしまったあの時の。
水の執務室での出来事を思い出し、青年は全身が熱くなるのを感じた。窺うように視線を上げると、何もなかったように歩を進める闇の守護聖の前方に、車寄せが近づいてくるのが見えた。
待機していた御者たちがこちらに気づき、機敏な動作でそれぞれの馬車を用意し始めている。
二人が車寄せに着いたのとほぼ同時に、暗色の馬車が主の前で扉を開いた。無言のまま乗り込むクラヴィスを見つめながら、水の守護聖はまだぼんやりと考えていた。
この腕に、自分は包まれていた。特別な意味がなかったとしても、確かに包まれていた……
「ご一緒に乗られるのでしょうか」
扉のすぐ外に立っているリュミエールに、闇の館の御者が尋ねてきた。
水の守護聖は我に返り、慌てて頭を振った。
「いいえ、あの──クラヴィス様、お疲れ様でした。お休みなさいませ」
「……ああ」
聞こえるか聞こえないかの返事を残して、馬車が走り出す。
間もなくそれが夜の闇の中に姿を消すと、見送っていた水の守護聖は、信じられないほどの痛みを胸に覚えた。まるで躯の一部がもぎ取られてしまったかのような、強烈な喪失感を伴う痛みだった。
「リュミエール様、いかがなさいました」
水の館の御者が問いかけてくる。
「何も……」
青年は何とか声を振り絞ると、御者の手を借りて馬車に乗り込んだ。
「お顔の色が優れません。少し休まれた方がよろしいのでは……」
再度の言葉に、もはや答える事も叶わず、わずかな動作で発車をうながす。
馬車が走り始めると、リュミエールは固く両眼を閉ざした。どうしてしまったのだろう。いったい、何が起きたというのだろう。意識を失いそうなほど苦しいのに、心のどこかで、この痛みがずっと消えずにいてほしいと願っている。これもまた、報いなのだろうか。水の執務室での、あの──事の。
腕に胸に、そして背に、忘れがたい感触が蘇ってくる。息の止まりそうな陶酔といっそう激しい痛みを、表裏のように併せ伴いながら。なぜ、あのような事をしてしまったのだろう。いくら、疲れて判断力を失っていたとはいえ。帰らず待っていて下さったのを知り、悲しみから歓喜へと、一気に心が振り動かされたとはいえ。
混乱したまま私邸に着くと、水の守護聖はふらつく足取りで寝室に入っていった。
(本当に……どうしたと……)
崩れるように寝台に倒れこみ、両手で顔を覆う。
気分を悪くして支えられた事はあっても、あのような──自分からしがみついていったというのは、まったく別の話ではないか。咎められこそしなかったが、闇の守護聖には、いったいどのように思われただろうか。混乱してたまたま起きた動作だと、事故のようなものだったと言って謝れば、それですませてもらえるだろうか。
だが、鮮やか過ぎる喜びの記憶が、心中で激しく糾弾している。あの時、確かに自分は嬉しいと思っていたはずだ。心と躯の隅々に至るまで、幸せで満たされていた。そうなるだろうと知っていて、望んで、あのような行動をとったのだろうと。
それを証明するように今、その人と離れている事が、見つめられず存在も認められていない事が、反動のように心を痛めつけてくる。悲しみとなり虚しさとなって、心の裡を吸い縮め、潰していく。
けれど同時に、どうしようもない喜びがこみ上げてくるのが感じられる。その人の姿や動作、為した事を、口にした言葉を思いおこすたびに、温かい嬉しさが湧き上がり、押し寄せてくるのだ。
身動きできないほどの痛みと、深く甘い恍惚。逃げ出したい辛さと、離れがたい執着。相反する感覚が、心を引き裂かんばかりの勢いで縦横に走り抜けていく。せめぎあっているように、あるいは抱きあっているかのように、激しくもつれあいながら。
誰に縋る事も、何に祈る事もできなかった。これまで拝していた貴い女性は、今やこの混乱の源へとすぐさま意識を運びかねない、危うい存在となってしまった。ましてや、いつも支えとなっていた貴い男性に至っては──まさにその人こそが、この混乱の中心に他ならないのだから。
終わりの見えない夜の底で、リュミエールはただ慄き、震え続けるしかできなかった。
一睡もできないまま時は過ぎ、気づけば室内の闇が、微かに薄まりだしていた。
見つめる人の心にも構わず、それは徐々に息づいて灰色となり、明度を上げ彩をまとって、寝室の調度を浮かび上がらせる。まるで、新たな一日の始まりを触れ回ろうとするかのように。
「リュミエール様……」
扉の向こうから、家令が控えめに呼びかけてきた。
「ご気分はいかがでしょうか。昨夜はかなりお疲れのご様子でしたが」
「……大丈夫です」
既に闇とは呼べなくなった室内を眺めながら、リュミエールは力なく答えた。
昨夜からの激しい混乱は退く様子もなく、頭も躯も泥のように重い。しかし、怪我でも病気でもないのに、執務を滞らせるわけにはいかないだろう。いや、むしろ仕事をしていた方が、少しはこの苦しみを紛らせられるかもしれない。
何よりも、闇の守護聖を手伝えるのならば、負担を軽くできるのならば、休んでなどいられるはずがない。たとえこの心身がどうであろうと、また、どう思われていようと。
胸中に煩悶を抱いたまま、水の守護聖は気丈な面持ちで寝台を後にした。