水の章・4−41


41.

 宮殿に着いたリュミエールを待っていたのは、執務開始前に臨時の集いが開かれるという連絡だった。

 さっそく集いの間に向かおうとして、リュミエールは躊躇した。いつもならばクラヴィスに声をかけ、同行するようにしているのだが、今日ばかりは闇の執務室に向かうのに、相当な勇気を要しそうだ。

 昨夜から、少しも褪せない鮮やかさで心中を巡り続ける記憶、厳しく繰り返される問い。これからあの方に近づくたびに、苦しみはさらに増すだろう。果たして、自分に耐えられるだろうか。いっそ声をかけるのを止めてしまったら、それよりこの場から逃げ出して、私邸にこもってしまったら──

 胸を過ぎった考えを、一つの想像が打ち消した。あの闇の部屋で、呼び出しにも気づかず無言で座している、黒衣の姿。それを思っただけで、リュミエールの足は自然と前に向かっていた。

 広い廊下を進み、迷いなく闇の執務室に向かう。どのような衝動に駆られようとも、自分はあの部屋に行くだろう。行かなければならないだろう。あの方に、たとえ少しであろうと、不便な思いをさせないためならば。




 集いの間に集まった守護聖たちに、女王補佐官は、オリヴィエが体調不良のためしばらく執務を休むと告げた。

 前夜の出来事を知る者たちは暗い面持ちで黙り込み、他の者たちは驚きの表情を見せながらも、やはり口を開こうとはしない。水の守護聖は、同僚たちの間に漂う重苦しい雰囲気を、改めて感じていた。自分と同じように皆、最近起きている一連の出来事には、名状しがたい不安と違和感を覚えているのだろう。

「ところで、ルヴァがいないようですね。こちらには何の連絡も入っていませんが、誰か伝言を預かっている人はいませんか」

ディアの言葉に驚きながら室内を見回し、地の守護聖の不在を確かめると、リュミエールは自らに対して愕然とした。ルヴァが連絡もなく集いを休むなど、知る限りでは一度もなかったはずなのに、言われるまでなぜ気づかなかったのだろう。自分はここまで、注意が散漫になっていたのか。

(やはり、気持ちが……乱れているのでしょうか)

隣に立つクラヴィスに、水の守護聖はそっと眼を向けた。先刻執務室に行った時は、覚悟の上とはいえ、息が止まりそうな思いがしたものだった。幸いにも相手がいつもと変わらない態度で接してくれるので、こちらも何とか平静な態度を保ってはいるが、胸の裡では昨夜の記憶が、拷問のように心を責め続けている。

(クラヴィス様……)

ぼんやりと見つめていると、闇の守護聖が前を向いたまま、不意に頭を振った。

 はっとして我に返った水の守護聖に、ディアが話しかけてくる。

「リュミエール、あなたはどうですか。ルヴァから何か聞いていませんか」

話の流れを察するのに数秒を費やした後、水の守護聖はようやく返答を口にできた。

「……いいえ、何も」

「そうですか」

補佐官は束の間、心配そうにリュミエールを見つめたが、すぐ全員に視線を向け、言葉を継いだ。

「誰も聞いていないのでは、仕方ありませんね。後で私から連絡してみましょう。では、集いはこれまでです」




 解散が告げられてもなお、私語を交わす者もなく、守護聖たちはそれぞれ物思いに耽る様子で小広間を後にしていった。

 そのような中、いつものように最後になってから歩き出した闇の守護聖を見て、リュミエールは胸が激しく打つのを感じた。意識がこれまでになく強くひきつけられ、眼が離せなくなっている。永い間見慣れてきた、何という事もない動作なのに、いったいどうしてしまったのだろう。




 動揺を押し隠しながら、水の守護聖は一日を過ごさなければならなかった。昼休みに竪琴を奏でに行き、夕方に自らの執務を終え、手伝いに出向く。クラヴィスの一挙手一投足に心が震えるのを自覚しながら、それでも仕事に集中する事で懸命に気持ちを鎮め、何とかその日の執務が終わるまで補佐を続ける事ができた。

「お疲れさまでした。このルヴァ様あての書類が最後ですね。私が届けて参りましょう」

無言で頷くクラヴィスに一礼すると、リュミエールは廊下に出て行った。




 大窓いっぱいに広がる夜空を見るともなしに眺めながら、水の守護聖は地の執務室に向かった。普通ならば守護聖たちは帰宅している時間だが、闇の守護聖と同じように仕事量が増えているのだとしたら、まだ執務の最中かもしれない。

 扉を叩くと、部屋付きの侍従が顔を出した。

「ルヴァ様はご在室ですか。書類をお届けにきたのですが」

「それが……今日はまだ、こちらに来られていません」

驚きの表情を見せたリュミエールに、侍従はルヴァが執務室に姿を現さず連絡もしてこない事、私邸に問い合わせると、昨夜遅く聖殿に向かったきり帰っていないとの返答だった事を告げた。

「ディア様にはご報告いたしましたが、まだご指示が下されないので、こうして待機しているところです」

「では、ルヴァ様は……」

行方不明なのかという言葉を、水の守護聖は飲み込んだ。守護聖が行方不明などという事になれば、聖地の、いや宇宙の大事となってしまう。たまたま連絡を忘れているだけかもしれないのだから、軽率な事は言えないだろう。

 とりあえず書類を執務机に置かせてもらうと、リュミエールは不安な気持ちで闇の執務室に戻り、今聞いてきた話を伝えた。

「まさか……」

険しい表情で考え込んだクラヴィスは、やがて自分に言い聞かせるように続けた。

「いや、ルヴァの事だ。よほどの弱みでもない限りは、大丈夫だろうが……」

水の守護聖には、相手が何を心配しているのかわからなかった。ルヴァのような博識な人格者に、“弱み”などという言葉は全くそぐわないように思われる。確かに、昨夜はいくらか様子がおかしかったが、特に取り乱していたというわけでもなく、弱っているようにも見えなかった。連絡を忘れるのは困りものだが、たとえば家僕や侍従の目の届かないところで本に熱中していたとしたら、ありえない話ではない。

 考え込んでいると、クラヴィスが突然呼びかけてきた。

「リュミエール」

「……はいっ」

飛び上がらんばかりに動揺したリュミエールは、半ば裏返った声で答えた。

 だが闇の守護聖は、こちらを見つめたまま何も言おうとしない。ただその眉が僅かにしかめられているのが、リュミエールにはわかった。背中に、汗がにじみ出てくるのが感じられる。変な声を出して、気分を害されてしまったのだろうか。暗い室内で唯一明るい照明の施されている執務机の、その反射を受けた白面に、あからさまな不機嫌が浮ぶのが恐ろしくて、水の守護聖は眼を逸らしてしまった。

 気の遠くなるほど長く辛い沈黙の後、ようやく、低い声が聞こえてきた。

「帰るぞ」

無表情に告げられたそれは、もう用も話もないという宣告だった。

「……はい」

力なく答えると、リュミエールは退出する闇の守護聖に続いて歩き始めた。放免されたのか拒絶されたのか、その両方なのかもわからず途方にくれながら、前を行く丈高い後ろ姿を見つめる。廊下の窓から見える夜空より、なお黒く美しい長衣。厚くもしっとりと柔らかな布の感触が、そこに包まれていた人の確かな存在が、夢の続きのように蘇ってくる。灼熱となって全身を巡り、焦がし始める。

 今宵も眠れない夜になりそうだと、水の守護聖は心中で一つ溜息をついた。


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