水の章・4−42


42.



 翌日の午前中は地の執務室に行く用事がなかったため、リュミエールは、ルヴァが平常の執務に戻っているか否かを知る事ができなかった。

 やがて昼休憩の時間になると、青年はいつもどおり闇の執務室を訪ねたが、僅かな会話からわかったのは、どうやらクラヴィスも自分と同じく、地の守護聖の安否をつかめないままだという事だった。

 わざわざ確かめに訪問するのも気が退けるが、いつまでこうして不安を抱えていればいいのかと思うと、心細くなってくる。

 しかし、請われて竪琴を奏でているうちに、水の守護聖は、少しずつ気持ちが落ち着いてくるのを感じた。万一、守護聖が行方知れずなどという事になったなら、きっと調査が始まり、自分にも問い合わせがくるはずだ。そうなるまでは予断を持たず、淡々と過ごすしかないのではないだろうか。

 ようやく、少しでも前向きに考えられるようになった自分に、リュミエールは心中で安堵の息をついた。



 そして午後、執務が始まって間もなく、リュミエールは補佐官室への呼び出しを受けた。  急いで出向いた撫子色の部屋では、ディアがいつもの優しい微笑で待っていたが、水の守護聖はその面に、微かな疲労の影を見出していた。

「さっそくですが、ルヴァの居所に心当たりがないか、もう一度思い出してみてくれませんか」

「まだ、わかっていなかったのですか」

恐れていた言葉を耳にして、リュミエールは思わず聞き返した。

「ええ。研究院で調べて、飛空都市か聖地のどちらかにいる事だけは確認したのですが」

 飛空都市から出る手段は現在、遊星盤と呼ばれる大陸への転移装置と次元回廊の二つしかない。前者は王立研究院の管理下にあって誰も許可なく使う事はできず、一方後者は、守護聖ならば係官のいない時にも行き来が可能だ。しかし、もしルヴァが聖地に向かったとしても、そこから無断で外界に出ようとすれば、必ず遮壁に痕跡が残ってしまうので、いずれにしろ研究院の知るところとなる。

 ディアの口ぶりからして、遊星盤にも遮壁にも異常はなかったのだろう。そうなると──女王直轄下にある、いわば二つの宇宙を通して最も安全な区域内にいるのが明らかであり、また、行方が知れなくなってまだ二日しか経っていないのを考え合わせれば──大掛かりな捜索で周囲に不安を与えるよりも、こうして秘密裏に探す方が、確かに良策なのかもしれない。

「お役に立てるかどうかわかりませんが……」

状況を飲み込むと、水の守護聖は静かに話し出した。

「私が最後にルヴァ様とお会いしたのは、確か一昨日の夜、ディア様にオリヴィエの件をご報告した後でした」

リュミエールは、そこで言葉を切った。直後に闇の守護聖との間にあった事が、鮮烈に蘇ってきたのだ。

 記憶を辿るふりをして両眼をつぶり、動悸を落ち着けようと息をつく。今はだめだ。今はあの出来事を、昨夜も眠りを奪い去ったあの記憶を、無理にでも封じておかなければならない。たとえ後から、幾倍もの苦しみや混乱が、反動となって襲い来ようとも。

 何とか動揺を押さえ込むと、水の守護聖は慎重に言葉を継いだ。

「クラヴィス様……が待っていて下さったので、共に宮殿を退出しようと階段を下りた時、オリヴィエの部屋に灯りがついているのに気づいたのです。それで、誰かいるのかと思って向かいましたら……」

夢の執務室で見た事を報告しながら、リュミエールは後悔を覚えずにいられなかった。あの時、ルヴァの言動がおかしいと気づいていたのに、自分は何も問う事なく、ただ見送ってしまったのだ。

「……というわけで、どこか普段と違うご様子のまま、ルヴァ様は出て行かれたのです。私が行先をお尋ねしていれば、このような事にはならなかったかもしれません。気が回らず、申し訳ありませんでした」

「まあ、そのような事が」

溜息の混じった声で、補佐官が言った。

「けれどリュミエール、自分を責めないで下さい。もし誰かに責任があるとすれば、それは私です。オリヴィエの教育係だったのを思い出して、朝を待たず地の館に連絡を入れたのは、私でしたから」

「ディア様」

話の途中で息をついたのが、自責に苦しんでいるように取られたのだろうか。陽光の下でさえ隠し切れないほどの疲れを見せながら、なお相手を労わり微笑む補佐官に、水の守護聖は無言で礼をとるしかできなかった。




 夕刻、闇の執務室で補佐をしていたリュミエールは、地の守護聖あての書類を見つけると、無意識に溜息をついていた。

「どうした」

背後からの声に、水の守護聖はびくっと身を震わせた。相変わらず心中の煩悶は収まらず、闇の守護聖の言動に過敏に反応しては、必死にそれを隠し続けているのだ。

 勇気を奮い起こして振り返ると、執務机に就いたクラヴィスが、手元の書類に面を向けたまま返事を待っていた。

「申し訳ありません。ルヴァ様にお渡しする書類があったので、つい」

「相変わらず、所在が知れぬようだな。先ほど、育成に来た女王候補に尋ねられて、難儀したぞ」

言いながら渋い表情になったところを見ると、どうやら言葉以上の苦労があったようだ。二人のどちらが聞いてきたのかはわからないが、いずれも勘の鋭いところがある少女だ。行方不明の件をごまかすのは、さぞ大変だったに違いない。

「それは……お疲れ様でした」

気の毒に思いながら答えると、闇の守護聖はゆっくりと視線をあげ、前方の虚空を見つめた。

「その後はディアに呼ばれ、知っている事を尋ねられた。どうやら、我々が最後の目撃者だったようだな」

「そうでしたか。きっと、守護聖全員にお聞きになっていらっしゃるのでしょうね」

リュミエールは、思い出してはならない事を思い出さないよう意識しながら付け加えた。

「もっとも、休んでいるオリヴィエには、まだお尋ねになっていないかもしれませんが」

「……オリヴィエ?」

まるで初めて耳にした名のように、闇の守護聖は繰り返すと、考え込むように眼を閉じた。

「ルヴァはなぜ、あの者の部屋に行ったのだ」

しばらくたって呟かれた言葉に、リュミエールは答えた。

「それでしたら、やはりディア様がご連絡を入れられたそうです。ルヴァ様が彼の教育係だったので、念のためというおつもりだったのでしょう」

「その事は私も聞いた。だが、そうだとしても──」

クラヴィスはそこで言葉を切ると、考えても無駄だというように深い息をついた。

 漆黒の頭を振り、再び机上の書類に視線を落とす闇の守護聖を、リュミエールはじっと見つめていた。何という事もない動作なのに、どうしてこれほど強い印象を残すのだろう。心の深くまで素早く入り込み、しみこむように広がって留まり続ける。こうして眼に焼きついてきたいくつもの姿が厚い層をなし、すでに心の大部分を占めるようになっている。

(クラヴィス様……)

甘苦しい想いに耐えかねて心で呼ぶと、闇の守護聖の手にした書類が、微かに動いたような気がした。




 思わぬ客が水の執務室を訪ねてきたのは、次の日の朝だった。

「リュミエール、ちょっといい?」

「オリヴィエ!」

部屋に入ってきた夢の守護聖は、すっかり普段どおりの様子を取り戻しているように見えた。ただその両手には──指に巻かれた包帯を隠すためだろう──厚地だがしゃれたデザインの手袋がはめられていた。

「もう良いのですか、痛みはありませんか」

驚いて立ち上がった水の守護聖に、オリヴィエは艶然と微笑んでみせる。

「全然大丈夫。包帯のせいで、メイクの細かいところがアシスタント頼りになっちゃうのだけは、どうにも不本意だけど。あのコたちも一流のテク持ってるんだけど、やっぱり自分でやりたいからねえ」

話し方も内容も、いつものオリヴィエそのものである。それが嬉しくて、リュミエールも微笑んだ。

「その様子なら、すぐに執務にも戻れそうですね」

「今日から戻るよ。サインだけは略式にさせてもらうけど」

明るく答えると、夢の守護聖は真剣な表情になって同僚を見つめた。

「この間は、みっともない所を見せたね。ごめん。それに、ありがとう」

「そんな……止めてください」

水の守護聖は、慌てて言った。

「私はただ、医療院やディア様に連絡しただけです。お礼なら、そちらに言ってください」

「あんたらしい謙遜だねえ。安心して、その人たちにはもう言ってきたから。ディアだけは珍しく部屋にいなかったから、後で出直すつもりだけど」

「ディア様が?」

同僚の言葉に、リュミエールは思わず呟いた。

「では、まだルヴァ様の行方をお捜しなのでしょうか……」

「何だって」

聞いた事もない、低く鋭い声で、オリヴィエが言った。


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