水の章・4−43
43.
「捜してるって、どういう事」
言い方こそ穏やかだが、その面には、答をもらうまで一歩も退かないであろう固い意志が現れている。
リュミエールは、自分がうっかり口を滑らせたのに気づいた。やはり夢の守護聖は、ルヴァの失踪を知らなかったのだ。ディアが何度か面会に行っていたはずだが、容態を気遣って黙っていたのだろうか。だとしたら、自分はその配慮を台無しにしてしまった事になる。
(けれど……)
こうして執務に戻ってきた今、これ以上隠しておくのは無理というものだろう。早ければ今日にでも、職務でルヴァと話す必要が出てくるはずだ。現に自分のところにも、そのような用件が連日たまり続けているのだから。
「……わかりました」
水の守護聖は、心を決めて話し出した。
オリヴィエは黙ったまま同僚の話を聞き終えると、どこかひきつった表情で呟いた。
「持っていったんだ……あの本」
思ったより反応が冷静なのに安堵して、リュミエールは頷いた。
「やはり、あれは本だったのですね。相当古いものなのではありませんか、同じように変色した楽譜を見た事がありますが──」
言いながら、水の守護聖はふと執務机の端に眼をとめた。いつの間にか上板の縁に掛けられていた同僚の手の、その手袋の指先に、赤い模様が浮き出している。
いや、模様などではない。厚地の布から血がにじみ出るのにも構わず──あるいは気づかず、オリヴィエは治りかけた傷が開くほどの力をこめて、机の端をつかんでいるのだ。
「また血が出ているではありませんか、手当てしなければ!」
言われて初めて気づいたように、夢の守護聖は机から手を離したが、同僚の言葉に従おうとはしなかった。
「そんな事より、早くルヴァを見つけ出さないと。何だか、嫌な予感がするんだ」
考え込む表情でリュミエールの脇を通り過ぎ、窓辺に近づいていく。
「聖地の私邸にもこっちの私邸にいない。大陸にも下りていないし、聖地を出た様子もない。宮殿や聖殿にも、両方の研究院にも、他の守護聖のところにもいない、か」
腕組みをしたその手の先で、指先がどのような状態になっているのか、水の守護聖は心配でならなかった。
だが、声をかけようとしたその時、窓外に向けられていたオリヴィエの眼が、何かを捕らえたように光った。
「ディアの馬車が戻ってきた。話を聞いてくるよ」
「私も行きます」
速足で出て行こうとする同僚を放っておけず、リュミエールもまた扉へと歩き出していた。
階下にある補佐官室に着くと、二人は侍従からしばらく待つように告げられた。
「申し訳ありません。ゼフェル様とマルセル様が、先ほどからお待ちでしたので」
「だったら、たぶん同じ用件だね。混ざらせてもらうよ」
侍従の返事も待たず室内に入っていくオリヴィエの後ろを、リュミエールは当惑しながらついていった。
撫子色の部屋の奥、安楽椅子の傍らで、鋼と緑の守護聖たちがディアと相対しているのが見えてきた。
「はぁい、ディア。ルヴァの手がかり、何か見つかった?」
ことさらに明るく声をかけてきた夢の守護聖に、少年たちが驚いたように振り返る。
「あ、オリヴィエ様……リュミエール様も」
「何だよ、いきなり割り込みやがって。だいたいおめー、医療院にいるんじゃなかったのか」
その向こうで女王補佐官が表情を曇らせているのに気づき、水の守護聖は急いで謝罪した。
「申し訳ありません、ディア様。ルヴァ様の事を話したのは、私です」
「いいのですよ。いずれにしろ、そろそろ話すつもりでしたから。オリヴィエ、私の判断で今まで黙っていましたが、どうか気を悪くしないで下さいね」
「こっちこそ、気を遣わせて悪かったよ。ありがとう、二人とも」
真面目な声で答えてから、夢の守護聖は、ことさらに元気そうな表情で少年たちを振り向いた。
「というわけで、あんたたちもルヴァの事で来たんだったら、私たちを混ぜてくれた方が、ディアの手間が省けるんだけどね」
オリヴィエの提案に、鋼の守護聖は舌打ちしただけだったが、緑の守護聖は大きく頷いた。
「そういう話なら、わかりました。いいよね、ゼフェル──それでディア様、僕たちもずっと、考えつく所を全部探してるんですけど、手がかりが全然見つからなくて、だから、こちらで何か分かった事がないかと思って来たんです」
「……そうですか」
補佐官は溜息をつくと、心痛の現れた面持ちで答えた。
「残念ですが、新しい情報はありません。今も王立研究院に行ってきたのですが、何も分かりませんでした」
「袋小路、か」
夢の守護聖の優美な眉が、いつになく険しく顰められる。
「けどよ、外に出てないって事は、聖地かこの飛空都市のどっちかに、必ずいるはずなんだろう」
誰かにというよりは、自らに言い聞かせるように、鋼の守護聖が言った。いつも強い光を放っているその赤い瞳が微かに揺れているのは、不安を抑えているからだろうか。
少年たちの心を痛ましく思いながら、水の守護聖は慰めるように言った。
「そうですね。きっとまだ、私たちが思い至っていない事があるのでしょう。こうして皆で考えれば、それが見つかるかもしれません」
「あ、そうだ!」
突然思いついたように、緑の守護聖が言い出した。
「占いの館のサラさんに頼んでみたらどうでしょう。陛下が任命されたほどの人なら、占いで見つけられるんじゃないでしょうか」
新たな望みを見出したように、守護聖たちの顔は明るくなったが、ディアは残念そうに頭を振った。
「サラは今、大事な用があって、故郷の惑星に帰っているのです」
「何だよ、よりによって、こんな時に!」
傍らに置かれた安楽椅子の背に、ゼフェルが拳をたたきつける。一度では気がすまないのか、再度拳を振り上げるのを見て、リュミエールは思わず目を瞑った。
だが、それが下ろされる前に、夢の守護聖の声が聞こえてきた。
「占いだったら、もう一人いるじゃない。ねえ、リュミエール」
五人という、滅多にない大人数の来訪を受けて、クラヴィスは不機嫌そうだった。申し訳ない気持ちと、それでもこの望みにすがりたいという願いとの板ばさみになって、水の守護聖はいたたまれない思いだった。
「クラヴィス、今日はお願いがあって来ました」
女王補佐官はそう言うと、手短に事情を説明した。
「──そういうわけで、あなたにルヴァの行方を占ってもらいたいのです」
闇の守護聖は来客たちの顔を見回し、それから無言で頷いた。
執務室の壁際にある机に移り、引き出しから一組のカードを取り出す。それを長い指で繰っていく様子を、五人は一言も発する事なく見つめていた。
間もなくクラヴィスは、一枚のカードを表に返した。
「……これは」
切れの長い双眸に失望の色が浮かぶのが、リュミエールには見て取れた。
「もったいつけずに、早く教えろよ!」
我慢できないように、ゼフェルが叫ぶ。
胸の塞がる思いで、水の守護聖はクラヴィスの薄い唇が息をつくのを見つめていた。
「常道、当然の動き、いつもあるべき所……という意味だ。手がかりにはならなかったようだな」
「そんな!」
高い声を上げたのは、緑の守護聖だった。
「ルヴァ様がいらっしゃりそうな場所は、もう全部調べたんですよ。いったいこの上、どこを探したらいいんですか」
「マルセル、落ち着いて」
嗜めるディアの横で、夢の守護聖が肩をすくめる。
「いつも私たちのいるべき所って、要するに聖地と飛空都市でしょ。確かに当たってるんだろうけど、これじゃ捜索範囲は全然絞れないよね」
「図書館だ!」
唐突に、ゼフェルが叫んだ。
「ルヴァといえば、図書館だろうが。ディア、あそこは探してみたのか?」
補佐官は、意外そうな面持ちで答えた。
「念のため係員に尋ねてはみましたが、見かけていないという返事でした。それに、ルヴァはもうずっと、図書館に行っていないと聞いていますよ」
「そもそも、それがおかしいじゃねーか。あいつ、“行けない”って言ってたんだぜ。“行かない”じゃなくて」
「どういう意味なの、ゼフェル」
大きな瞳をさらに見開いてマルセルが尋ねたが、鋼の守護聖は苛立ったように頭を振った。
「俺だってわかんねーよ。ただ、変な言い方しやがるって、ずっと引っかかってたんだ」
「行けぬ……か」
クラヴィスが、何かを思い出そうとしている表情で水の守護聖を見た。
「リュミエール、ルヴァは最後に会った時、“これまでは危険を避けてきた”というような事を言っていたな」
「はい。それから“もう逃げない”とも」
闇の守護聖はしばし考え込むと、今度はオリヴィエに向かって問いかけた。
「お前の部屋からルヴァが持ち出した、あの紙の束は、何だったのだ」
「それって……あの人を探すのに必要?」
険しい視線に気圧された様子で、それでも夢の守護聖は返事を躊躇っていた。
「そうだ」
オリヴィエはなおも迷っていたが、間もなく諦めたように言った。
「いろんな分野の古い本だよ。プレゼントしようと思って取り寄せて──三日前だったかな──ルヴァの所に持って行ったんだけど、どういうわけか受け取ってくれなくてね。自分の部屋に戻ってから、何だか無性に腹が立って、つい八つ当たりで壁に投げつけちゃったんだ」
床に散乱していた紙束を見て、理由もわからず胸が痛んだのを、リュミエールは思い出していた。そこまでオリヴィエは不安定になっていたのだ。もしかしたらこの出来事が心の影を増幅させ、一種の自傷ともいえる行為に繋がってしまったのかもしれない。
「なのにさ、どうして後になって、こっそり持っていったりしたんだか」
夢の守護聖が、ぽつんと言う。
それを聞いて、クラヴィスは眼を見開いた。
「そういう事だったのか」
「クラヴィス様?」
思わず聞き返すリュミエールに、闇の守護聖は焦ったように答えた。
「ルヴァは図書館にいる。自分にとって危険と知りつつ──急げ、命に関わるかもしれぬ」
「クラヴィス、あなたは……」
女王補佐官が言いかけて止めるのと同時に、二人の守護聖たちが口を開いた。
「何だか知らねーけど、とにかく図書館だな!」
「ディア、宮殿の馬を借りるよ」
ゼフェルとオリヴィエが、室内の闇を裂かんばかりの勢いで走り出ていく。
「リュミエール、マルセル、私たちも行きましょう。クラヴィス、色々とありがとう」
女王補佐官もそう言うと、足早に扉へと向かっていった。