水の章・4−44


44.

 補佐官と二人の守護聖は馬車を駆って研究院に向かい、次元回廊を抜けると、聖地側の出入口である宮殿に着いた。そこで新たな馬車を準備させている間に、三人は夢と鋼の守護聖が一足先にここに着いた事、それぞれ馬とエアバイクで同じ方角へ出て行った事を、侍従から教えられた。

 間もなく馬車の用意ができたので、一行もまた図書館に急いだ。

「リュミエール様」

隣り合って座ったマルセルが、小声で話しかけてくる。

「あの、図書館が危険って、どういう事なんですか。僕、途中から話がわからなくなってしまって」

「私にも……わかりません。きっとクラヴィス様は、私たちの知らない何かをご存知なのでしょう」

そう答えると、水の守護聖は向かいの席の補佐官に眼を向けた。

 窓外を見つめる蒼ざめた横顔には、険しささえ感じるほどの緊張が現れている。この女性もまた、秘された事情のために苦悩し続けているのだろうか。恐らくは女王やジュリアス、ルヴァ、そしてパスハやサラたちと共に。

 そういえばディアは先刻、サラが故郷に戻っていると言っていた。試験も終わろうという大切な時期にここを離れるなど、よほどの理由がなければ考えられない。これもまた、同じ秘密のためなのだろうか。

 不安と疎外感に胸塞がれる思いで視線を戻すと、緑の守護聖が切ない眼差しでこちらを見つめていた。きっとこの少年も自分と同じように、憶測しかできない立場を悲しみ、歯がゆく思いながら耐えているのだろう。

 独りではないと言うかわりに頷いてみせると、マルセルは少し落ち着いた表情になって頷き返してきた。




 道のりの半ばほどを過ぎた時、馬車が突然大きく揺れだした。

「どうしたんだ、こら、静まれ」

馬を落ち着かせようとする御者の声と重なって、何かの音が近づいてくる。

 窓から身を乗り出すようにして外を見たマルセルが、思わず声をあげた。

「ゼフェル、どこに行くの!」

すさまじい勢いで馬車の上を通過し、すれ違っていった機械音は、どうやら鋼の守護聖の乗ったエアバイクだったらしい。

「図書館の方から飛んで来て、宮殿の方に行ってしまいました。いったい、どうしたっていうんでしょう」

見る見る小さな点になっていく影を見送りながら、少年が不安そうに呟いたが、水の守護聖はただ頭を振るしかできなかった。

 一方補佐官は、動じる様子もなく無言で進行方向を見つめ続けていた。ただ、その面が最前よりいっそう厳しくなっているように、リュミエールには思われた。




 ようやく図書館の正面玄関に着くと、係員が外まで出迎えに来ていた。

「オリヴィエ様が、特別資料室の前でお待ちです」

「特別資料室……」

水の守護聖は、久しく耳にしていなかった言葉を繰り返した。確か図書館の一部で、特に古く貴重な蔵書が収めてある部屋だったはずだ。一般の聖地住民はおろか、王立研究院でも特に許可を得た者しか入れないが、守護聖は自由に閲覧できると教えられた覚えがある。とはいえ実際に訪れるような用事もなく、ほとんどの守護聖たちにとっては、存在さえ忘れられかけている場所だった。

 本館の裏手にある小さな入口に、三人は案内された。十人も入れば窮屈になりそうなホールを通り、廊下の先の部屋に入ると、奥にある大きな扉の前で、夢の守護聖が職員らしき老人と共に立っているのが見えた。

「ルヴァは見つかりましたか」

いきなり聞いてきた補佐官に、オリヴィエは疲れた表情で扉を指した。

「この中だってさ……けど、扉は開けられないし、呼んでも返事がない」

「申し訳ありません、補佐官様!」

突然、身を投げ出さんばかりの勢いで老職員が言い出した。

「鍵をかけたのは私です。このような事になるとは思いもよらず……」

見れば扉には手前側からかんぬきが掛けられ、そこに骨董品のように古い南京錠が、がっしりと取り付けられている。扉板にはようやく片手を潜らせられるほどの小窓があり、開閉のできるガラス戸がついていたが、向こうの部屋が薄暗く、また扉自体が分厚いために、中をうかがい知る事はほとんどできないようだった。

「顔をお上げなさい。ここで何があったのです」

声の震えは隠せなかったが、あくまで冷静な口調で、ディアが問いかけた。




 老職員の話によると、ルヴァが突然やってきたのは、三日前の深夜──日付が変わった後だったので、二日前の未明と言った方が正しいだろう──だった。もちろん閉館時間中ではあったが、唯一の専従職員である彼の家をわざわざ探しあて、今すぐ調べたい事があるといって入口を開けさせたのだ。

「その時ルヴァ様が、この扉はロックできないのかとお尋ねになったのです。調べものを、誰にも邪魔されたくないからと」

 だが犯罪もない聖地の事、当然のようにそのような装置は設けられておらず、ただ建てられた時代の慣習なのか、一度も使われた事のなさそうなかんぬきと南京錠が、部屋の外から掛けられるようになっているだけだった。

 それを告げると、地の守護聖は即座に言った。

“では私がこの部屋に入ったら、あなたがかんぬきと錠を掛けて、鍵を小窓から投げ込んでください。合鍵もですよ。そうすれば、誰にもここを開けられる事はありませんからね。調べ物が終わったら、小窓から鍵を外に落としておきますから、半日に一度くらい見に来て、気がついたら開けてくださいね”

 しかし鍵は未だに落とされておらず、地の守護聖からは何の連絡もないまま今に至っているという。

「じゃ、ルヴァ様は三日もの間、飲まず食わずでこの部屋に閉じ込められているんですか!」

恐慌に近い表情で、マルセルが扉に走りよる。

「ルヴァ様、ルヴァ様、いらっしゃるんでしょう、返事をしてください!」

小窓を覗いては扉を叩く少年を、水の守護聖は止める気になれなかった。むしろ一緒に扉を叩き、声の限りに呼びかけたい気持ちだった。いくら居場所が明らかになったとはいえ、姿も見えず声も聞こえないのでは、安心するどころか、かえって悪い想像が働いてしまう。

「そのような事があったのなら、なぜ宮殿に連絡しなかったのですか」

女王補佐官も、つい自制がきかなくなったのか、非難の表情で老職員に問いかけた。

「ディア、落ち着いて。私もそれを聞いたんだけどね」

狼狽のあまり言葉も出ない様子の老人に代わり、夢の守護聖が答える。

「何でも、ルヴァはこれまで何度もここに泊り込んで、調べものをした事があったんだってさ。今回はしばらくぶりだったし、ロックしたいなんて言われたのも初めてだったけど、中には洗面所もあるし、携帯食料でも持っているんだろうと思って、特に心配もしていなかったそうだよ。そもそも、私たちがルヴァを探している事を、この人は知らなかったっていうし」

 ディアははっとしたように口に手を当て、それから老職員に向き直った。

「……確かに私は、全職員に伝えよとまでは言いませんでした。あなたに落ち度はありません。故もなく咎めた私を、許してください」

「と、とんでもないです、補佐官様!」

よほど恐縮したのだろう、半ば涙声で老人が答える。

 その会話を聞きながら、リュミエールはやるせない気持ちで考えていた。事情を考えれば、仕方のない事だったのだろう。この職員に危険が予知できるはずもなく、一方こちらは、混乱を避けるため秘密裏に探さなければならなかった上、ルヴァが図書館にいるはずがないと、全員が思い込んでいたのだから。

 だが、それがわかったところで、状況が何一つ変わったわけでもない。再び扉に眼を向けると、業を煮やした表情のマルセルが、力ずくで錠を開けようとしているところだった。人の手で壊れるようなものでないのは一目瞭然だが、そうする気持ちは水の守護聖にも痛いほど理解できた。

「止めな、マルセル」

夢の守護聖が声をかけると、少年はむきになったように言い返した。

「オリヴィエ様は、ルヴァ様が心配じゃないんですか!」

その言葉に、美しさを司る青年は一瞬、えもいわれぬ切なげな表情を浮かべたが、すぐそれを隠すように双眸を閉じた。

(オリヴィエ……?)

水の守護聖が眼を見張った時、入口から爆音のような機械音と、次いで荒々しい足音が響いてきた。


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