水の章・4−4


4.

 翌日リュミエールは、午前の分の自らの執務をすませると、断られる覚悟で闇の執務室に向かった。

 だが思いがけない事に、彼はそのまま室内に通された。

 恐る恐る足を踏み入れると、どことなくひんやりした静かな空気が、闇に漂うほのかな白檀の香りが、躯を包み込んでいく。それらが以前と少しも変わっていない事に安堵しながら──三日しかたっていないのだから、当然と言えば当然なのだが──水の守護聖は部屋の奥へと向かった。

「リュミエール……か」

姿がはっきりと見える前に、部屋の主が呼びかけてきた。それは、聞いた事もないほど苦しげで弱々しく、だが不思議な力を感じさせる声だった。

「いかがなさいました、クラヴィス様」

ただならぬ様子に足を速めると、書類を手にした黒衣の守護聖の姿が見えてくる。最低限に落とされた灯りの下、その面が声の印象と同じくやつれ、それでいてどこか落ち着いた表情を浮かべているのが見て取れた。

 薄い唇が動き、珍しくも指示の言葉を呟く。

「宇宙に関して、少し気になる事がある……どのような些細な事でもよい、普段と異なった報告がないか、ここの書類を調べてくれぬか」

「はい」

水の守護聖は短く答えると、相手が指し示した書類の束を手に取った。

 先日からの苦しげな様子は、宇宙への懸念のためだったのだろうか。もしそうならば、集いの場で光の守護聖が発した問いかけにも納得がいく。任期の長い三人が、他の守護聖たちよりも先に宇宙の異常を察知すると言うのは、充分にありえる事だからだ。

 いずれにしろ、オリヴィエやオスカーにも伝えておいた方がいいだろうが──とにかく今は、少しでもこの方の助けになり、苦しみを減じて差し上げるのが先決だ。




 それから毎日、リュミエールはクラヴィスのもとに届く情報を、通常と変わったところがないかいちいち再確認するようになった。

 最初はごくまれに、誤差の範囲といってよいほどの些細な異常が見つかる程度だった。だが数日がたち週が過ぎるうちに、僅かずつだがその頻度が増えつつあるのが分かってきた。

 その一方で彼は、夢と炎の守護聖たちとも連絡を密に取るようになっていた。

 オスカーによると、ジュリアスも最近になって彼に、遠まわしな表現でだが、宇宙の様子に変わった事がないか聞いてくるようになったという。またオリヴィエが地の館で聞いてきたところによると、ルヴァはあれからずっと図書館と研究院に入り浸り、私邸にはほとんど帰らなくなっているそうだ。

 だが三人とも、それら細かい異常の間に関連を見出せなかったため、ただ年長の者たちの様子に不安を募らせるしかできなかった。

 年少の者たちが、まだ彼らの様子に気づいていないらしいのが、せめてもの幸いだった。




 ある日、他の守護聖たちに見つからないよう、こっそりオリヴィエの部屋に集まった三人は、彼の机を囲んで何度目か知れない情報交換をしていた。

「相変わらず、見つかるのは細かい異常ばかりだし、内容もばらついていて、どういう面から捉えたらいいのかさっぱり分からないぜ。ジュリアス様には繰り返し、何を案じておられるのかとお尋ねしているんだが、この件に関しては貝のように口を閉ざしてしまわれるんだ」

やりきれない表情で嘆くオスカーに、水の守護聖が頷いてみせる。

「ええ、確かに。新惑星の誕生が遅れている星域、衰退ペースがやや速い惑星、生物の進化や文化の発展が全体に停滞気味な星系、理由の特定できない異常気象……状態はもちろん、場所や規模、星々の成熟度もそれぞれ異なるケースばかりで、共通点が見つけられませんね」

「あの人たち自身はどうなんだろうね。こういった兆候にどんな意味があるのか、つかんでいるんだろうか」

独り言のように呟いたオリヴィエに、炎の守護聖が答えた。

「少なくともジュリアス様は、ここ数日で何らかの結論を出されたように見えるな。もしかしたら、俺たちがこうして動くまでもなく、間もなく教えていただけるのかもしれない。だからといって、何もしないでなんていられないが」

最後の一言に妙に熱がこもっているのを不思議に思い、水の守護聖は同僚の顔を見つめた。表情こそ冷静さを保っているものの、そのアイスブルーの眼には尋常ならぬ光が浮かんでいる。

 驚いてオリヴィエに視線を向けると、こちらも珍しく浮かない表情で、古びた冊子をもてあそんでいた。それが新任守護聖用の研修資料だった事にリュミエールが気づいたのは、ずっと後になってからであった。




 一方クラヴィスは相変わらず、痛みと衰弱、そして諦観に似た落ち着きの中にあるようだった。リュミエールは以前と同じように補佐や演奏をしながら、平日となく週末となく側についていたが、今のクラヴィスの様子がいかなる心境、あるいは状況の変化なのかはもちろん、彼にとって以前より良い状態なのかどうかさえも見当が付かなかった。

 ただ、この人から目を離すまいと、どんな小さな事でもこの人の助けになりたいと、それだけを考えながら、青年は毎日を過ごしていた。




 それから数週間たったある午後、サクリア放出を終えて星の間を出たリュミエールは、次の間で闇の守護聖が待機しているのに気づいた。そういえば昨日とどいた書類の中に、闇のサクリアの放出指示書があったようだった。

「お待たせして申し訳ありませんでした。どうぞ」

「……ああ」

このあたりは普段、守護聖と星の間付きの侍従以外は近づかない。宮殿の他の場所よりも格段に人気がないので、低く呟くような声も響くように聞こえてくる。

 礼を取る水の守護聖の前を通りすぎ、クラヴィスが星の間に入ろうとした時、その静けさを破る足音が近づいてきた。

「……ですから、俺にも教えてください、ジュリアス様」

「私はディアに聞いているのだ」

女王補佐官と光の守護聖、それに炎の守護聖が、何事か話し合いながら次の間に入ってきた。途端にクラヴィスが、まるで強い日差しにでも目がくらんだかのように額を押さえ、項垂れてしまう。

「どうなさいました、クラヴィス様」

急いでリュミエールは闇の守護聖の側に走り寄ると、守るように傍らに立った。

 その間に、後から入室してきた三人は先客に気づき、足を止めた。

「あら、クラヴィスとリュミエール……そういえば今日は、闇と水のサクリア放出予定がありましたね」

「どうするのだディア、場所を変えるか」

苛立ったように二人を眺めながら、ジュリアスが言い出す。

「いいえ。この際ですから、二人にも聞いてもらいましょう。今なら星の間が空いているようですから、そこでお話します」

 後から来た三人はそのまま次の間を抜けて星の間に入り、水の守護聖もまた、何が起きているのか分からないまま、闇の守護聖と並んでそれに続いた。




 通常は侍従さえ入る事を許されない星の間は、扉を閉めてしまえば内密の話にうってつけである。

 オスカーが手早くリュミエールに説明したところによると、ジュリアスは今朝からディアを探していたもののなかなか会えず、ようやくついさっき、廊下でばったり出会ったのだそうだ。そして何事かを問いかけたところ、人気のないところで話そうということになり、その場所から近かった星の間にやってきたという。

「俺は俺で今朝からジュリアス様を探していたんだが、ようやくディア様と話しているところを見つけたので、話を聞きながらついてきたんだ」

「ジュリアス様はディア様に、何をお聞きになっていたのです」

不審そうに聞き返した同僚に、オスカーは困ったように答える。

「それが、何しろ途中から割り込んだんで、話が半端にしか分からないんだ」

「そなたたち」

光の守護聖の厳しい声が響く。

「大事な話だ。私語は慎むがいい」

一方、補佐官は憂いを帯びた眼差しで四人の守護聖を見渡していたが、やがて静かに口を開いた。

「守護聖の皆様には、もう少ししたらお話しするつもりでした。そこまで予兆を強く感じているとは思いませんでしたから」

「私だけではない。恐らくクラヴィスもルヴァも同様であろう。それに加えて近頃の宇宙の様子、微小ながら一定の方向を示す異常が、引きを切らず続いているではないか。何が起ころうとしているのか、そろそろ教えてもらいたいと思ってもおかしくはないと思うが」

ジュリアスに再度促され、ディアはようやく決意したようだった。

「では、お話します」

気持ちを落ち着けるようにしばし双眸を閉じ、徐に開くと、補佐官は厳かに告げた。

「今、観測されている異常の理由は、一つです──女王陛下のお力に、翳りが見え始めました。遠からず、新たな女王の選考が始まるはずです」

 守護聖たちは、一様にどよめきの声を上げた。リュミエールも、自分の耳で聞いた事が信じられない思いだった。女王の退位。一代の御世の終わり。永遠に変わらないように思われた最高の存在に、終焉が訪れようとしている。

(これが……全ての答えだったのですか……)

頭上に輝いている無数の星々を、彼は仰いだ。これほどの無限を統べてきた、想像さえできないほど偉大な存在に力を失う時が訪れるとは、知識として知っていても、なかなか受け入れがたい事だった。

 その時、呆然としている青年の耳に、掠れた声が聞こえてきた。リュミエールは最初、それが誰の言葉なのか分からなかった。 そして、すぐ隣に立っている闇の守護聖の口から出たのだと気づいてからも、それが何を意味しているのか分からなかった。

「彼女が……」

リュミエールにしか聞こえないほど小さくはあったが、間違えようもなくはっきりと、クラヴィスはそう言っていたのだ。




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