水の章・4−5
5.
次に口を開いたのは、光の守護聖だった。
「やはり、そうであったか。薄々、感じてはいたのだ。前陛下の時と似た感覚が、日増しに強くなってきていたからな」
「ジュリアス」
驚いた表情で、ディアが見返した。
「では……クラヴィスやルヴァも、気づいているのですか」
「確かめてはいないが、あるいはと思っている──クラヴィス、どうなのだ」
ジュリアスの問いかけには答えず、闇の守護聖はやにわに一同に背を向けると、そのまま歩き出した。
「危ない!」
叫びながら飛び出したのは、水の守護聖だった。扉を開こうとする手の動きが歩調と合わず、黒衣の長身が扉にぶつかりそうになっていたのだ。
リュミエールは急いで扉を押さえ、クラヴィスを通した。だがなおも闇の守護聖が歩みを止めようとしないので、背後の三人に一礼すると、その後を追った。
まるで悪夢の中にある人のように、重くも定まらない足取りで、クラヴィスは歩き続けた。長い廊下を進み、階段を下り、正面玄関へと向かっていく。時には先回りして扉を開き、あるいはその体を支えたりしながら、リュミエールは闇の守護聖の傍らに付き従っていた。
(いったい……どうなさったというのです)
ただならぬ様子に動揺して見あげると、相手の白面には、混乱したような虚ろな表情が現れていた。もしかしたらこの人には、自分がどこに向かっているかはおろか、歩いているという事さえ分かっていないのではないだろうか。水の守護聖は思わず溜息をつきながらも、進路に危険がないか注意を払い続けた。
だがクラヴィスは、屋外に出ると突然、日差しから逃げるように側の木陰に入っていった。行くあてがなく、眩しさも苦痛だというのなら、外を歩いたところで回復の助けにはならないだろう。
「クラヴィス様、今日はもう、お館でお休みになられた方がよろしいでしょう。今、馬車をここに来させますから」
そっと話しかけたが、何の反応も返ってはこない。
胸のつぶれそうな思いを抑えてリュミエールは顔を上げ、宮殿を振り向いた。正面玄関にいた者たちだろう、数人の侍従が心配そうにこちらの様子をうかがっている。
「誰か」
声をかけると、一番近くにいた者が、転がるように走ってくる。
「クラヴィス様はご気分を悪くされたので、私邸にお戻りになるそうです。闇の館の馬車をここに回すよう、御者に伝えてください」
クラヴィスを私邸に送り届けると、水の守護聖は後ろ髪を引かれる思いで宮殿に向かった。執務時間も終わりに近くなっていたが、闇の守護聖が早退きした事、それにサクリアの放出ができなかった事を、補佐官と首座の守護聖に報告しなければならないのだ。
暗い面持ちで戻った水の執務室には、先客が待っていた。
「クラヴィスは帰ったのですか」
撫子色の髪の補佐官に、リュミエールは丁重な礼をとった。
「はい、ディア様。私の判断で、闇の館までお送りいたしました。あのご様子では、サクリアの放出も無理かと思いましたので」
「そう……ですね。サクリアはまだ数日余裕がありますから、改めて予定を立てる事にしましょう」
ディアは頷くと、眼を伏せながら続けた。
「もう少し事態が進んでから、陛下のご退任を発表しようと思っていたのですけれど、あなたたちに心配をかけていたとは気づきませんでした。補佐官として、至らなかったと思います」
いつも慈悲深い微笑を浮かべている女王補佐官の、思いがけなく気弱そうな様子に、リュミエールは驚いた。
「そのような事はありません! ディア様には、私たちなどに分からない事情がおありなのでしょうし、年長の方々はともかく、私を含めたほかの6人は、心配どころか、何の前兆も感じていなかったのですから」
「ありがとう、リュミエール。あなたの優しさには、いつも助けられます」
答えながらディアは、ゆっくりと普段の表情を取り戻していた。
「早退きと闇のサクリアの事は、私からジュリアスに伝えておきます。あなたも疲れているようですから、あまり無理をしないで下さいね」
「ありがとうございます」
水の守護聖が礼を述べると、ディアは退出すべく立ち上がったが、僅かに躊躇った後、こう聞いてきた。
「それで……クラヴィスは何か言っていましたか、陛下のご退任について」
「いいえ、あれからは一言も口をきかれませんでした」
リュミエールは答えたが、同時に、心に何か引っかかるものがあるのを感じた。しかし、それを考える前に補佐官が頷き、そして歩き出したので、急いで後に続いたのだった。
ディアを送り出すと、水の守護聖は奇妙な気分に陥りながら机に戻った。女王に次ぐ神聖な存在としてのみ見てきた補佐官の中に、意外な弱さというのだろうか、一人の人間としての面が垣間見えたような気がしたのだ。
もっとも守護聖同様、女王も補佐官も元は普通に暮らす人間だったのだから、自分たちに就任前の記憶や感覚があるように、彼女たちにも一人の女性としての思い出があり、感情があるのは当然というものだろう。
(彼女……たち……)
女王や補佐官について、自分がそのような言葉で思いを馳せた事に、リュミエールは驚いていた。そして同時に、この言葉を先刻耳にした事を、ようやく思い出したのだった。
『彼女が……』
闇の守護聖が、唯一漏らした言葉。ディアに聞かれた時には忘れていたが、あの声は確かにそう言っていた。
まさかとは思うが、あれは女王を指した言葉だったのだろうか。話の流れから行けば、それが一番自然なように思われる。
しかし、これまで誰に対しても、クラヴィスがそのような呼び方をするのを聞いた事はない。
自分の場合は──たった今、心中でその言葉を使ったのは──女王や補佐官をそれぞれの任と切り離し、
一人の人間として捉えようとしていたからなのだが。
少なくとも聖地に来たばかりの時は、二人とも普通の少女だったのだから……
リュミエールの背筋を、冷たいものが走った。
(まさか、そのような事が)
女王とディアが聖地にやってきた時、年長の守護聖三人はすでにその職に就いており、選考期間を共に過ごしたと聞いている。
もしその間に、何か特別な事が起きていたとしたら。女王としてよりも一人の少女としての存在の方がより大きくなるような、そんな感情が、闇の守護聖の裡に生じていたとしたら。
苦渋に満ちた声が、突然、脳裏に蘇った。
『だが、教えてやる訳にはいかないんだ。すまない』
日に焼けた懐かしい面差し。前・緑の守護聖カティス。クラヴィスが今のようになった理由を知っているかと問われた彼が、肯定した後で口にした言葉。
(陛下に関わる事だから教えられないと……あれは、そういう意味だったのですか、カティス様)
答える人もいない夕暮れの執務室で、リュミエールは、救いを求めるように問いかけていた。