水の章・4−6
6.
乱れる思いを抱えて私邸に戻った水の守護聖は、一睡もできないまま翌朝を迎えた。
力の入らない心身を馬車に預けて宮殿に向かうと、通いなれた壮麗な建物が、なぜか酷く寒々しい場所のように見えてくる。これから起ころうとしている大事の影響か、それとも自分の状態のせいだろうか。
ぼんやりと考えながら執務室に入ったリュミエールに、部屋付きの侍従が近づいてきた。
「おはようございます。さきほどディア様から守護聖の皆様あてに、執務開始時間になったら星の間に集まるようにとのご連絡がありました」
「わかりました。ありがとう」
青年はつとめて平静に答えると、執務机につきながら考えた。恐らくこの集いは、女王交代を発表するためのものだろう。宇宙の歴史に残る大事、そして人によってはまた別の、重要な意味を持つかもしれない大事を発表するための──
(クラヴィス様と……陛下)
リュミエールの目の前が、にわかに暗くなった。疲労と共に薄らぎかけていた疑念が勢いを取り戻し、自分を引き込もうと大きな渦を巻き始めている。
(お二人の間に──それとも、クラヴィス様から一方的にかもしれませんが──特別な感情が生じていたなどという事が、本当にありえるのでしょうか……)
まだ何の裏づけもないとはいえ、それはリュミエールにとって思うだに狂おしく、また受け入れがたい憶測だった。
生まれるより遥か前から宇宙に君臨し続けてきた、そして常に崇拝の対象であった女王を生身の人間として考えるのは、まだ違和感のある事だった。実際、昨日ディアと話すまでは、そのような見方に思い至りさえしていなかったのだから。
だが、この激しい感情の大半はそこからではなく、もう一方の当時者から生じていた。闇の守護聖が誰かに想いを寄せていたかもしれないと、そう思うたびに、そう思うだけで、訳の分からない悲しみと腹立たしさがこみ上げてくるのだ。
(けれど、私は……私は)
水の守護聖は、自らに問いかけずにいられなかった。クラヴィスに対してずっと、感情を大切にしてほしいと、他人と触れ合ってほしいと願ってきたはずなのに、その願いどおりの事があったという憶測が、どうしてこれほど気分を悪くさせるのだろう。
手で額を押さえるようにして考え込んでいた水の守護聖は、しかし、執務開始の鐘が鳴っているのに気づくと、反射的に顔を上げた。
(行かなければ──)
半ば無意識に立ち上がった青年は、胸中に嵐を抱えたまま、星の間に向かって歩き出した。
廊下を進んでいくと、華やかな微笑を浮かべた青年の姿が見えてきた。
「お・は・よ、リュミエール」
近づいてきた同僚が、ふざけるように肩を抱いてくる。その腕に、躯ごと支えるような力がこもっているのを感じたリュミエールは、驚いて相手を見つめた。
「オリヴィエ、おはようございます。あの……」
「しっかりしなよ。代替わりが公表されるっていう日に、そんな倒れそうな歩き方してたら、おチビさんたちが不安がるだろ?」
「知っているのですか!」
思わず声を上げた水の守護聖に、オリヴィエは“しっ”というように唇に指をあてて見せた。
「オスカーが昨夜、家まで報せにきてくれたんだ──にしてもあんた、一晩でずいぶんとやつれたもんだねえ。そりゃ私だって、ショックだったけど」
「あ……いえ、すみません」
リュミエールは足を止めると、気持ちを落ち着けるように一つ息をつき、それから心中で自分に言い聞かせた。
宇宙全体を揺るがしかねない大事が、これから始まろうとしているのだ。この世に九人しかいない守護聖の、さらに何代、何十代に一度という重責を担う者として、自分たちは普段にもまして職務に集中し、励まなければならないだろう。
たとえ、気もそぞろになるような心配事が、個人的にあったとしても。それがどれほど強く、激しいものであっても。
「大丈夫です。行きましょう、オリヴィエ」
気丈に微笑み返すと、水の守護聖は自ら先に立って歩き出した。
だがその決意も、星の間に入った途端に崩れそうになった。いつものように補佐官の傍らに立っている黒衣の守護聖の、あまりに痛々しい様子が眼に入ったのだ。
自分がやつれているというのなら、この人はやつれ果てているというべきだろう。表情も立ち姿も、星の間の闇に溶け消えてしまいそうなほど弱り、そして憔悴しきっている。一晩でこれほど人が変わってしまうものかと、リュミエールは戦慄さえ覚えていた。
(これも……陛下を想われるがゆえ、なのですか)
助けようと近づこうとした足が、ふと止まってしまう。だが水の守護聖は頭を振ると、迷いを断つように急いでクラヴィスに歩み寄った。
「どうぞ、私にお捕まりください」
強引に相手の躯を支えながら、青年は前に立っているディアに問いかけた。
「クラヴィス様のご気分が、優れないようです。お休みいただくか、せめて侍従を呼んで、ここに椅子を運ばせてはいけませんか」
しかし補佐官が答える前に、闇の守護聖がその薄い唇を動かした。
「……いらぬ」
「クラヴィス様!」
「クラヴィス……」
水の守護聖と女王補佐官が、同時に呼びかける。
「無用だ……それより、早く話を始めるがいい」
リュミエールはクラヴィスの躯が、奇妙な揺らぎ方をするのを感じた。もしかしたら、こちらの腕を振り払いたいのかもしれないが、それが叶う力はとても出せないようだった。
できるだけそっと支えるようにしながら、青年は相手の様子を見守り続けた。肩から背にかけてが緊張したように強張って、元々痩せぎすの躯をいっそう薄く感じさせている。切れの長い双眸は半ば伏せられて、ちょうど補佐官を挟んで向かい側にいる光の守護聖の、その足元あたりに向けられている。
「全員揃ったようですね。では……」
突然聞こえた声に振り向くと、ディアが心配そうにこちらを見やり、それから思い切ったように正面に向き直るのが見えた。
「……今日の集いを始めます」