水の章・4−47


47.

 やがて馬車が聖殿に着くと、夢の守護聖は一呼吸おいて顔を上げた。

「ごめん、また心配かけちゃったね。もう大丈夫だから」

「……ええ」

ことさらに明るく言う同僚に、リュミエールは短く答えた。

 聖殿の大階段の下で、二人は軽い挨拶を交わして別れた。オリヴィエはまっすぐ自らの執務室に向かっていったが、水の守護聖はその場で足を止め、去っていく後ろ姿を見つめていた。華麗な衣に包まれた背から、隠しきれない心細さがにじみ出ているのがわかる。やはり先刻口にした疑念──自分の贈ろうとした古書が、結果としてルヴァに危険をもたらしたのかもしれないという──が、頭から離れないのだろう。

 リュミエールは同僚が自室に入っていくまで見守り、それから闇の執務室に向かった。




 扉を叩くと、いつもの聞きとりにくい返事が流れてきた。

「……開いている」

耳から全身にしみこんできた声に、泣きたいほどの痛みが胸を走った。ようやく家にたどり着いた幼い迷子のように、喜びと安堵があまりに急激で、一瞬、心が耐えきれなくなったのだ。

 扉を開き、ほのかに白檀の香る闇を進んでいくと、クラヴィスが先刻と同じ場所に座しているのが見えた。水の守護聖はその前に立ち止まり、礼を取ってから口を開いた。

「教えていただいたとおり、ルヴァ様は図書館にいらっしゃいました。もう、ディア様からの連絡でお聞きかもしれませんが」

「いや、聞いていない」

どうやら先刻の件は、まだジュリアスにしか知らされていなかったようだ。

 微かな動きで促されて、水の守護聖は近くの椅子に腰を下ろし、話を続けた。

「ルヴァ様は特別資料室で、ずっと調べ物をなさっていたようです。休憩も食事も取られていなかったらしく、意識を失っていらっしゃいましたが、医療院で治療を受け、何とか命の危険は脱されました」

「そうか……」

いつもは抑揚に乏しい声に、安堵の表情が現れている。

「……間に合ったのだな」

「はい。一週間以内には、執務にも復帰できるようになられるそうです」

相手の様子につられるように、リュミエールも改めて嬉しさをかみしめていた。この宇宙に九人しかいない守護聖であり、計り知れない恩のある先輩であり、何よりも、敬愛する掛け替えのない仲間なのだ。

(本当に、良かった……)

もしあの占いがなかったらどうなっていたかと思うと、背筋が寒くなる。きっと地の守護聖はあのまま、誰も考え付かない場所に篭り、ほとんど誰にも知られる事なく調べものを続けていたのだろう。そうまでして突き止めなければならない事が、この世に存在するとは、どうしても思われないのだが。

「……どうした」

思いが表情に出てしまったのだろうか、クラヴィスが怪訝そうに尋ねてくる。隠しても仕方がないと、リュミエールは正直に答えた。

「身を削り、命を懸けてまでして、ルヴァさまは何をお調べになっていたのだろうと、そう考えておりました。私になどわからない、難しい問題についてかもしれませんが」

 闇の守護聖の双眸が、僅かに苦しげな色を浮かべたかと思うと、すっと閉ざされた。

「いずれ、明かされる時が来よう……遠からず、な」

「では、クラヴィス様はご存知なのですか」

思わず発した問いに、返事はなかった。

「……申し訳ありません」

沈黙を続ける闇の守護聖に、リュミエールは謝った。

 答えてもらえないという、その事自体が答なのだ。ゼフェルが言ったように、また自分自身も考えていたように、やはり年長の守護聖たちは、何かを隠し続けている。ディアの言葉からすると、決め事をしているわけではないようだが、暗黙の了解のように同じ事を悟り、そして秘めているのだろう。

(命を……削ってまで……)

この秘密を守る者は皆、同じように危険を冒さなければならないのだろうか。計り知れない歳月を、誰の眼も手も届かないところで痛みに耐え続けてきたこの方までもが、更なる重荷を背負わされているのだろうか。

 措置室に横たわるルヴァのやつれた面を、水の守護聖は思い出していた。もし同じような事が、再び起きたとしたら。それがもし、闇の守護聖だったとしたら──

「リュミエール」

恐ろしい思いに埋め尽くされようとしていた心に、静かな声が投げかけられた。

「竪琴を……聞かせてくれ」

「は、はい」

考えを唐突に遮られて、水の守護聖は戸惑いながらも、反射的に答えた。




 半ばぼんやりした意識で自室に戻り、竪琴を取り上げると、気持ちがすっと和らぐのがわかった。慣れ親しんだ重さと感触が、弦の控えめな輝きが、いつもの自分を取り戻させてくれたのだ。膝に構えて奏でれば、きっとそれらは一層の癒しとなって、疲れた心を蘇らせてくれる事だろう。

(そのためのご依頼……だったのでしょうか)

闇の守護聖の真意に思いを馳せながら、リュミエールは腕の中の楽器を見つめた。そうして、まるで竪琴が熱を発しているかのように躯が熱くなっているのを、不思議な気持ちで感じていた。


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