水の章・4−49
49.
案内されたのは、前に訪れた特別措置室ではなく、貴賓用の広く上質な部屋だった。治療や検査用の機械が見当たらない事からすると、やはり地の守護聖の回復は相当に順調なのだろう。
大きな寝台の中から、ルヴァが半身を起こして微笑みかけてくるのが見えた。
「あー、オリヴィエにリュミエール。わざわざすみませんね」
「ルヴァ」
掠れた声で呼びかけたきり、夢の守護聖は言葉が続かないようだった。
リュミエールもまた、喜びで胸が一杯になるのを感じていた。
「良かった……良かったです、ルヴァ様」
「お陰さまでもう、どこも痛くも痒くもありませんよ。あなたたちには、とてもお世話になってしまったようですね。心配をおかけして、本当にすみませんでした。どうぞ、掛けてください」
寝台から一歩ほどおいて置かれた椅子に、二人は腰掛けた。そこから見ると、地の守護聖の柔和な面が、二日前とは比べ物にならないほど血色が良くなっているのがよくわかる。
「どうも昔から、本のたくさんある所に来ると時間を忘れてしまいがちでして……小さい子じゃあるまいし、そろそろ時計の見方くらい覚えないといけないんですがね」
冗談を口にする表情にも、無理をしている気配がない。水の守護聖は、思わず泣き笑いのような表情になった。
「面会続きでお疲れかと案じておりましたが、本当にお元気そうで、安心いたしました」
「実はさっきまで、昼寝……というか、夕寝をしていましてね。気持ちよく目覚めた後なので、とてもいい調子なんですよ」
地の守護聖がにこやかに答えると、突然オリヴィエが口を開いた。
「ルヴァ」
「はい」
驚いたように返事をするルヴァを、金の髪の青年はじっと見つめ、それから言った。
「図書館に行ったのは、ずいぶん久しぶりだったよね」
「……そうでしたね」
相手の意図を測りかねるように、それでも微笑を絶やさず、地の守護聖が答える。
さらに長い時間をかけてその様子を観察すると、オリヴィエは大丈夫だと踏んだのだろう、思い切ったように話を続けた。
「ずっと行かなかったのに、急に気が変わった原因は──私かい?」
単刀直入に尋ねられて、ルヴァは灰色の眼を見開いた。
「あの、ええとですね、それは……」
答えに窮した様子を見て、夢の守護聖は暗い面差しで頷いた。
「図星だったようだね。だろうとは思ってたけど」
「ええっ」
ルヴァの耳にさっと射した紅が、まなじりから頬、そして首筋へと広がっていく。
「それじゃ、オリヴィエ、あなたは……」
「隠してたんだろうけど、気づいてたよ。あんたがどんな気持ちで、どれほど苦しんでいたか。なのに──」
悔やんでも悔やみきれないという表情で、オリヴィエは言葉を切り、椅子から立ち上がった。
呆然としているルヴァの前で、一歩前に進み出ると、跪いて頭を垂れる。
「ごめん。本当にすまなかった。許されるような事じゃないってわかってるけど」
慌てたようにルヴァは後輩の肩をに手をかけ、顔を上向かせようとする。
「待って下さい、どうしてあなたが謝るんですか。謝らなきゃいけないのは、私の方ですよ」
オリヴィエの後ろから様子を見守っていたリュミエールは、地の守護聖が軽い錯乱を起こしたのかと思った。今の会話からすると、同僚の疑惑は当たっていたようなのに、どうして自分の方が謝るなどと言うのだろう。
「ルヴァ様」
医官を呼ぶべきだろうかと思いながら呼びかけると、地の守護聖は驚いたように手を下ろし、こちらを見た。
「リュミエール、あなたも……知っているんですか」
水の守護聖は、無言で頷いた。地の守護聖がなぜ本を避けてきたかについては、既にクラヴィスに示され、オリヴィエに教えられている。
赤面したままルヴァは表情を強張らせたが、やがて観念したように面を伏せ、大きく息をついた。
「守りたかったんですよ、この人を。本当に、命に換えてでも。なのに、傷つけてしまったんです」
言葉の意味が依然としてつかめないまま、リュミエールは地の守護聖を見つめた。
灰色の悲しげな視線が、俯いたままの夢の守護聖に、ゆっくりと向けられる。
「オリヴィエ、あなたを守るために、私は自分を見失わないようにしなければと思い、本を遠ざけていました。その想いだけで、遠ざける事ができていたんです。けれど、あなたの探してくれた本まで突き返したのは、考えが足りませんでした。指を損ねたと聞いて初めて、あなたがどれほど傷ついていたかを知り、この状態を一刻も早く解き明かさなければ、終わらせなければと焦って図書館に向かい──あげく、この体たらくです」
両の手を固く握り、ルヴァは項垂れた。
「本当にすみません、オリヴィエ。勝手にあなたを好きになっておいて、かえって傷つけて、迷惑ばかりかけてしまって」
水の守護聖は、自分が何を聞いたのか、すぐには理解できなかった。ただ同僚の肩がびくっと動き、その面が躊躇うように幾度も止まりながら仰向いていくのを、理由のわからない動悸を覚えながら眺めていた。
「何を、好きだって」
うわ言のような声で、オリヴィエが言う。
「もちろん、あなたをですよ。まさか、気づかれていたとは思いませんでしたが。それなのに私は、守るどころか──」
なおも謝り続けようとするルヴァを、夢の守護聖は片手を上げて制止した。
疑問と緊張をはらみながら、しかしどこか温かな沈黙が、瀟洒な室内を流れていく。
かなり時間をおいてから、その手はオリヴィエ自身の両瞼に移り、しばらくそこを押さえた後、寝台に置かれたルヴァの手に重ねられた。
「気づいてたのは、それじゃなかったんだけどね……まあ、いいや。私だって、負けないくらい、あんたを守りたかったんだから」
リュミエールは、落ち着かない気持ちになった。ついにオリヴィエの話までわからなくなってしまった上、立ち入るには個人的すぎる話が始まったような、何とも居心地の悪い雰囲気を覚えるのだ。
立ち上がって扉に向かったものの、勝手に去っていいのかと躊躇い、足を止める。
「オリヴィエ、それって……」
「自分より何より大切だと、ずっと思ってた」
気づいていないように続く会話に、どこか柔らかな響きが加わっているのを、水の守護聖は感じた。何だろうか、とても温かなものが、二人の間に通い始めているような感じがする。
これなら大丈夫だろうと安堵しながら、リュミエールはそっと病室を出た。
馬車を用意しようとしていた職員に、リュミエールは少し歩きたいと告げて建物を出た。医療院は町から少し離れた丘に建てられており、周囲には散歩に適した道が巡らされている。先刻オリヴィエが歩いていたというのも、たぶんこの辺りなのだろう。
一本の並木道を選ぶと、既に深更に近くなった聖地の夜空の下を、水の守護聖は歩き出した。たった今立ち会ってきた場面を、地と夢の守護聖たちに何が起きたのかを、頭の中で整理しようと思ったのだ。
だが、そう思う心のどこかで、既に自分が答を得ているような気もしていた。言葉の行き違いがあったらしいのはともかく、二人がそれをきっかけとして、これまで以上に強い気持ちで繋がったのが、確かに感じられたからだ。
青銀の髪の青年は足を止め、医療院を振り返った。
(ルヴァ様と……オリヴィエ)
このような事が起き得るのだ。これほど身近で、自分と同じ守護聖同士の間で、このような繋がりが生まれる事があるのだ。彼らが互いを掛け替えのない存在と認め、相手にも同じ事を求めて満たされあっているのが、信頼や敬愛だけでなく、もっと激しく熱い感情で結ばれているのが、端で見ていた自分にまで伝わっていた。
見とれるように思い起こしていた二人の姿が、しかしいつの間にか、別の二人へと変わっていく。
(クラヴィス様と……)
あれが彼の人であったなら。あれが自分であったなら。
特別な存在になりたいというのは、身勝手な欲ではなかったのか。だが、少なくとも地と夢の守護聖たちの姿に、そのような浅ましさは微塵も感じられなかった。与えるだけでなく求める事もまた、相手の幸福になり得るのだろうか。
枷が外れたような、新たな望みを見出したような気持ちで、リュミエールは大きく息をついた。
その時、激しい衝撃が全身を襲った。何の前触れもなく、立っていられないほどの強風が、突然吹き始めたのだ。周囲に身を隠す物もなく、道を挟む木々に近づく事もできず、リュミエールはその場に身を屈めてやり過ごすしかなかった。
(なぜ聖地に、このような風が……!)
動揺しながら耐えていると、ようやく風は収まっていった。
そのまま医療院に戻ってもよかったが、ひとまず木に身を寄せて休もうと、リュミエールは道脇に近づいていった。夜目のため今まで気付かなかったが、ここの並木は等間隔でなく、二本三本と疎らに生えているようだ。奇妙な植え方だと思いながら眼を凝らしているうちに、水の守護聖はその理由を見出した。元々は等間隔に植えられていたのに、その半数近くが既に倒れてしまっているようなのだ。
残る木の後ろに隠すように置かれた、まだ折れ跡も生々しい倒木は、ここ二三日中のものだろう。それ以外にも、平らに切りそろえられた切り株が少なからずあるようだ。という事は、あの強風は今までにも幾度となく聖地を襲っていた事になる。
以前遭遇した地震が、マルセルが話していた果物の不作が、ここに来るたび感じていた動植物の不和が、次々と湧き出すように思い出されてくる。
(聖地が……弱っている……)
暗い並木道を眺めながら、水の守護聖は背筋が寒くなるのを覚えていた。